たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

砂漠とオアシス

砂漠にいる。なぜだかはわからないが、砂漠を歩いていた。いまがいつで、ここがどこか皆目わからない。時間も方角も何もわからない。振り返ると足跡も消えていた。自分を証だてるのは、飢えと渇きのほかになにもない。耐え難きほどのそれが、無理やり足を動かしている。砂漠を追われる人の足を動かすのが生への渇望か、死への恐怖か、誰もわからないだろう。幸運なことに、あなたはオアシスにたどり着いたようだ。水を飲み一息つくと、ようやくものを考えられるようになったのか、そこではたと思い出すのは仲間たちのことだった。

 

砂漠を歩く道すがら、あなたは決して一人ではなかった。何人もの仲間が倒れ、骸に成り果てていったのを、この眼でたしかに見てきたではないか。なぜ今まで忘れていたのか。ところで、あなたは食べ物も飲み物もないのに、なぜ歩き続けられたのか。意志の力で到底ここまでたどり着くことなどできないに違いない。ああ、あのとき、生きるために決して口外できぬ罪を犯したのだろうか。決して砂漠には来ぬ大きな雨雲のような不安があなたの頭の中を覆い尽くす。砂塵に巻かれ記憶は消え去っているが、嚥下した水に鉄の味が混じっているように感じた。砂塵を舞い上げる風音が叫び声にも聞こえる。どうしてそこにいるのがあなたであって、わたしではないのかという叫び声に。いつしか疲れ果ててあなたは眠るだろう。オアシスの緑に抱かれて、束の間の休息を許される。

 

起きて周りを見渡すと、このオアシスには水だけでなく食べるものもあることが、わかった。少ない人数ならばここでしばらく生きられるのかもしれない。暮れゆく空が赤光から真っ黒に塗りつぶされてゆくのを眺めていると、押しつぶされそうなほど星空が間近にあることに驚く。さまよっているときには気づかなかったことだ。いや、何度も星の導く方角に騙されて、空を、上を向かなくなったのだ。また別の日に夜に目を凝らして何もない砂漠を眺めていると、光が目に飛び込んできた。何かの反射光かもしれないと思い、近くに人がいるのかもしれないと期待を抱かせた。はぐれた仲間たちがいるのかもしれない。単純な見間違いかもしれない。それでも、おーい!ここだ!と叫ぶ気力はあるのだから、叫んで駆け寄っていってもいいはずだ。だが声が出ない。もしも、復讐にやってきた亡霊であったとしたら。あったかもしれないおぞましき過去のことを、また口に広がる鉄の味が確かにお前がやった罪だと責め立ててくる。喉がつまり、吐き気が襲う。声も出せずへたり込んで、そのまま、また時間がわからなくなっていった。朝日が昇ったような気もするし、何年も経ったかもしれない。あなたのところには誰もやってこなかった。亡霊さえも。存在証明だった飢えと渇きさえ失って、自分は生きているか死んでいるのかさえも分からなくなった。このオアシスにいることが正しいことかどうか、そんなことばかり頭を占めるようになった。いつしか、いたかもしれない、食べたかもしれない仲間たちのことばかり考えてしまうようになった。砂漠をさまよう生者と死者たちが、夜の星よりもはっきりと見える。記憶の中に像も結ばぬ、名前もあるかなきかの仲間たちのことを、いつも思い出している。飢えても渇いてもいないことが、ついに耐えられなくなって、おーい!ここだ!と叫んで飛び出して、あなたはすぐに死んだ。骸に残った眼球の水晶体が星の光を反射して、そのままどこかへと消えていった。

青梅を歩く③

青梅街道を一本入った七兵衛通りを、青梅駅を過ぎてしばし歩いていくと、交差して、陸橋がかかった比較的車通りの多い道路がある。この道路の名は調べてもよく分からなかったのだが、今日はここを歩いてみよう。右折する。この道路は、山と山の間を無理やり通したようで、しばらく歩くと、森の圧を感じることになる。

以前、ここを夜中に友人たちと連れ立って歩いたことがあるが、静けさが濃密に存在して、少し恐怖で浮ついた気持ちになったことを思い出す。しばらく歩くと、青梅坂トンネルがある。トンネルの入り口にかかる蔦が、まるで首吊りロープのように見えて、またひどく不気味だった。

昼に来ると、吊られる人を待つようなそのロープは、夜中見たときよりもひどく細く、風にふらふらと揺られて、恐怖よりも頼りなさを感じる。以前は、夜中ということもあり、ここからしばらく歩いて引き返したのだった。トンネルをぬけると、針葉樹林が広がる。その針葉樹林は、樹木の幹が細く白く見える。友人たちと夜中来たときは、時折通る車のライトに照らされて仄かに立つ幹がヒトのようにも見えて、充満した静けさも相まって、こちらをじっと眺め続ける視線さえ感じたのだった。だから怖くなって帰った。でも今日は昼だ。おそらくあと二時間後には日没だろう。密だが疎な針葉樹林を照らす赤らみ始めた空は、恐怖よりも寂しさを印象付けた。

この先にある小曽木という土地は、山の中の小さな平地という意味だったらしい。だから、「夜明け前」をもじって「小曽木は山の中だった」と語っても許されるだろう。茅葺屋根の寺社の建物が残され、ほとんど人の往来もない黒沢から小曽木にかけての道は、山の威圧も相まって、近代という光が届かなかった地にさえ思える。

しばらく、時間が凍りついてしまったような土地を歩いていた。少しだけ、本当に時が止まっているのかもしれないと不安になる。赤光があたりをセピア色に照らし出しているから、まるでゲームのスーパーマリオ3Dでジャンプして絵画に入り込むように、またはジュマンジの映画のように、古ぼけた写真の中へと、気づかぬうちに入り込んでしまったかと落ち着かぬ気分になる。しかし、数日前の降雪から、少しだけ残る、溶けかけで排ガスに汚れた雪のカスが、時間の経過を知らせる。そのきったねぇ雪の残りカスを見て、同じ時が流れていて、凍りついているわけではないのだと安心できた。

 

時間の凍結したような風景は、むしろ拮抗なのかもしれない。時が経てば、ものは壊れ、自然に飲み込まれる。青梅の森林に囲まれた地を初めて歩いたとき、ここが人類のフロントラインであると確信した。いずれここも、森に沈む。苦心して切り開いた土地は、揺れて流れる大地とそれを覆う森に敗北して、我らの痕跡など残らないに違いない。あるいは、森でなく禿げ上がった砂漠になるかもしれないが、どちらにせよ、人の繁栄など、薄氷の上でしかない。そのように、青梅の森は訴えかけてくる。

匂いもそうだ。森の匂いは、鼻につくほど青臭い。マスクを外せば、生/性が鼻腔内で充満し爆発する。引っ越してきたときに、花粉症が酷かったことも合わせて思い出す。充満した生/性の軍勢に対して人はどうか。青梅の、コンビニより多く叢生する寺院の周りに、山林をわずかに切り開き、いじましくも建てられた墓の数は、ひょっとしたら青梅の人口よりも多いのじゃないかと思えてしまうほどだ。つまるところ、自然に対峙する人の勢力には、死の匂いが染み付き、諦めのムードが漂っている。ここで人は死んでいるか死にかけている。どおりでいつも抹香臭いわけだ。すくなくとも、戦いは撤退戦である。今歩いている青梅市の成木や小曽木の地区というのは、とりわけ高齢化率が40%を超えている。濃密な生と死が、我々を囲繞している。

 

おそらくこの生と死の濃密な匂いに、意識せずにアテられてしまったのだろう。青梅に引っ越してすぐに、木を彫ろうと思い詰めた。庭で日がな、腰を下ろして、木に埋まる仏を掘り出そうと思ったのだ。深山幽谷のなかで隠遁した文人になり、幽冥の境をふらつきながら、狂おしく仏を彫りたかったのだ。そう、単に木彫りを作るのではなくて、無性に仏を彫りたかった。仏を彫らなければならない、とさえ思ったし、未だ持ったことはないがいずれ手にする木には、彫られるべき仏が存在していることを確信していた。この妄執は、風車に突撃するドン・キホーテのような自然へのプロテストでもあるし、抹香の匂いへの複雑な意思表示でもあるだろう。だが、未だ仏を彫り当てるどころか、何も彫ってさえいないのだから、いずれ来るべき仏が何を表象するのかはわからない。まだ時折、仏を彫らねばという想いに取り憑かれることがある。

話を戻そう。トンネルからかなり進んだ先で(黒沢のどこかだと思うが)道路の補修工事をしていた。あまりに平凡な光景だから写真に収めてもいない。工事中の道路の脇を、熱気を帯びたアスファルトが平にされているのを、あの道路工事特有の臭気と熱気を受けながら通り過ぎた。どうやらまだ人類は諦めていないらしい。凍った時間のような風景は、絶え間ない補修を通して、人の手を入れ続けることで、ようやく成立しているのだ。拮抗とはこのことである。今は、手を入れて自然に抵抗しているが、時間を凍らせることで精一杯なのだ。

 

ところで、ならされる前のアスファルトのように、固く凍った土地に至る前では、青梅の地が熱く揺れていたことはあったのだろうか。すなわち、時間を溶かして、時計の針を前に前に進め、来るべき未来を、その熱の先に先に目指すような、そんな時代はあったのだろうか。

 

どうやらあったようだ。すくなくとも、青梅の山は揺れた。この話はいずれしようと思う。今その話をするには準備が足りない。

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赤光が暗みはじめた。赤昏い日の中で黒沢川の清流を見ていたら、真っ白なシラサギが川の中で静かに佇むのを見た。美しいと思って写真を撮ろうとスマホを取り出し、少しだけ近づいたら、こちらの気配に気づかれたのか、純白の大きな翼を羽ばたかせて川から飛び上がって空に向かった。その様子も絵になるような美しさだった。ここから遠くへどこまでも飛べ、と勝手なことを念じたが、シラサギは、川の直ぐそばの家の屋根、そのヘリの突端に、飛び立ってすぐに立ち止まった。風見鶏のようだった。本物の風見鶏さながらに、そこで、ピンと立ち、まっすぐ一点を見ていた。それを見ると、こちらが抱いた勝手な念を、恥じ入らざるをえなかった。

青梅を歩く②

無意味に大きい勝沼神社表参道の石碑を右手に見ながら、旧青梅街道を歩き始める。裏側を見ると、どうやら昭和62年に昭和天皇の60年の治世を祝して建てられたもののようだ。だが、この裏側を見る人も、そもそも、この石碑を見る人がどれだけいるのだろうか。

歩き始める。淡々と、渋々と、とぼとぼと。肩で風切るような歩き方は、おそらくこの土地になじまない。

そもそもなんのために、青梅駅まで歩くというのか。あんな何もないところに。青梅駅前は栄えていない。駅前のイルミネーションは、活力よりも、キッチュで、わびしく、退廃的な印象を与える。

 

大層な理由などないし、散歩に理由を求めるほど野暮なことはないと思う。強いて言うなら、破れゆく土地を踏みしめたいからだ。ありし日々を悼むような静かな土地を、相反するように、喪失の痛みを新たな賑わいの創出をもって糊塗しようと足掻く土地を、自分の足で踏みしめたいからだ。こんな言い方をするが、私は青梅にとても強い愛着を持っている。シニカルな身振りは破れた道を歩くうちに解消され、足元から囁くゲニウス・ロキを感知するだろう。どこかそれは疲れ果てた自殺志願者にも似て……。青梅はもう死んでいる。だが青梅はまだ生きている。

何度か歩くうちに、いつしか強く感じたことだが、旧青梅街道は見渡しがきく。それは、青梅市の中心地、大都会河辺とも共通している。われわれの家の最寄駅、東青梅駅のお隣、河辺駅を出て、イオンと梅の湯につながるペダストリアンデッキを、仕事で定期的に河辺駅に来るという後輩と歩いていた。そのときに、彼はここからの眺めが最高なんですよ、と言った。何の変哲もない、郊外の光景のどこが?彼いわく、こんな2階くらいのひっくい場所から、街のすべてを見渡せる場所なんてないですよ、といささか以上の毒舌を、それでいて、澄んだ目で言うものだから、青梅住民の自分も毒気が抜かれて追従する笑いをこぼしてしまったのだ。そう、青梅は低い。

青梅の人工物は低いが、山はそれなりに高い。

いずれ山の話をするかと思うが、山から圧迫されるように、身を小さくして居住している青梅の建物は低い。おそらく江戸時代に宿場町であったことの名残りがあると思うのだが、建物の背が低いように感じる。それは旧青梅街道を歩く度に思うことだ。少し背伸びをしたらあたかも全域を見渡せるような高さで、ちょうど建物が切りそろえられているような、少しの不自然さがある。いつでも、青梅の土地を見渡し、何もかもを誰でもない視点から記述を許されるような、三人称の視点に移行できるかのようだ。

 

ところで、青梅と高さといえば、青梅市公式動画というYou Tubeチャンネルに投稿されている、「MY Home, MY OME」という動画がある。

youtu.be

見てもらっても見てもらわなくてもかまわないんだが、新規移住者に青梅に住んで良かったことを聞いてまとめるという体裁で、何人もの新青梅人(ニューカマー)が出てくる。動画で最後の方に出てくる六十代くらいの白髪の男性は、それなりに高いマンションからの豊かな自然の眺望を毎日見て楽しめることを、移住してよかったことにあげていた。おそらく、そこのマンションは特定できる。ネットストーキングなどせずとも、多少青梅の土地勘があれば可能だ。

眼下の景色からして、バーベキュー場のある多摩川のふもとの近くに建つマンションだろう。そこから見下ろされている当のBBQ場で、バーベキューしたときに、おそらくそのマンションを見て俺は、青梅であんな高いところに住んでなんの意味があるのか、と階級意識も含まれた悪態をついたことを思い出した。その男性は会ったこともないし知りもしないから他意はないのだが、いまでも青梅で高めのマンションに住んでどんな意味があるのだろうかと疑問に思う。青梅は低いのだから、その低さにあわせて生きねば、この土地を生きたことにならないのではないか。そしてどちらにせよ、どんなところに居を構えても、囲繞する山よりも低いのだ。山に行けば、すぐにでも(何度も通いすぎて飽いているのと、秋口に不審な黒い四足の獣を見てから行っていないが)絶景を見ることができるのだから、窓から不自然な景色を見ずとも、普段は地を這いずって生きる方が、この地にあっているように思われる。われわれは三人称に移行してはならない。

 

水は高きから低きに流れるというが、当時非正規雇用で、収入も乏しく、シェアハウスで男二人暮らしというのは、ほとんどの場所で断られて、都心どころか中央線沿線からさえ流れて、われわれは青梅線のターミナルまで流れてきたのだった。低いところに住んでるんだから、少しでも高さにこだわるマウントを見せてんじゃねえという思いが、青梅で高めのマンション住む人間への悪態に滲み出ているのだろう。青梅は低いのだ。この低さを、低さに見合った視点で記述しなければならないと感じる。だからこそ青梅は歩かれなければならない。だからこそ青梅を歩かなければならない。

 

青梅は低いが、威信をかけた共同体のモニュメンタルなものは豪勢に大きく作ろうとするのかもしれない。それは勝沼神社表参道の石碑以外にも見て取ることができる。

チャキチャキの青梅っ子たち(ストレイト・アウタ・青梅)も低さへと抵抗している。旧青梅街道の西分という地域では、巨大な山車の格納庫が存在している。この山車の格納庫は、ほかの街並みと不釣り合いに大きくピカピカしている。これはほかの11地域でも同様で、青梅市は毎年青梅大祭が開かれ、そこで豪勢な山車を見せびらかし合うらしい。

青梅大祭山車と居囃子紹介

らしいというのは(引っ越してからぜひ生で見てみたかったのだが)コロナ禍でここ三年ほど開かれていないために、この立派な倉庫の奥で鎮座している(おそらくひどく手間とカネが使われたピカピカした)山車を、現物ではついぞ見たことがないのだ。勝手な心配だが、こうした共同体の催しは、単にあるというだけでは求心性を担保できず、献身はまさに献身させることで、その求心性を可能にする。したがって、コロナ(が明けるのかどうなのかてんでわからない地点にあるが)以降に再開されたときに、元の通りに祭りができるかどうかは、不透明だろう。それでもなお、数年開かれていないにしては、倉庫はひなびた感じもなく、常に手が入れられているのを感じる。あのひどく不釣り合いに巨大な山車とその倉庫が示す通り、世界が終わっても彼らは、この祭りを続けようとするだろう。黙示録のラッパのように祭囃子が鳴り響くさなか、何もかもが終わるさまをいつか見てみたい。

この建物の対面には、もともと牛乳販売所だったひどく古ぼけた建物がみられる。元牛乳屋の写真は、まだ人が住んでいる気配がしたために撮っていない。そこには雪印牛乳青梅出張販売所と掲げられているが、青梅の青が脱落し、全体としてほとんど読解が困難なほど色褪せている。牛乳屋は、コンビニやスーパーの台頭で追われたが、それ以前は非常に稼ぎがよかったと聞いたことがある。というのも、一度も会ったことのない父方の祖母の弟は、小さいころに親戚に貰われていって、旧制高校から京都帝国大学、証券会社勤務を経て、貰われ先の牛乳屋の家業を継いだらしい。家業の牛乳屋は高度成長期には左うちわだったようで、彼の息子二人を東京の私立大学に行かせている。だが、大店法の改正やコンビニの出店などで顧客が減り、最終的には家業を畳むことになった。晩年には認知症が進み、徘徊と寸借詐欺を繰り返していたみたいだ。生きているのか死んでいるのかもわからない状態だったが、祖母の葬式にも通夜にも連絡をよこさなかったために、喪主だった父が怒り、その親戚と丸ごと絶縁と相成った。このエピソードも含めて、おそらくよくある日本の近代の一断面を、破れた元牛乳屋を見て想起した。それはおそらく、青梅が今に至るまでにたどった歴史なのだろう。

もうすこし行くと、秋川街道と交差した三叉路に行きあたる。このあたりからネコとレトロの人為的な押し付けが目に余るようになる。青梅は一応歴史的な経緯もあり、ネコの絵を推しているようなのだが、別に土地を歩いていて、そこまで猫を見かけることもない。このあたりから、映画のポスターをネコに改変した看板がたくさん目につくが、これはおそらく、もともとの映画看板を作っていた本式の職人が亡くなり、その空白を埋めるために作られたのだろう。青梅市にある東京都内唯一の木造映画館という触れ周りの、最近オープンしたシネマネコも、名前にネコを付けている。なぜ、ここまでネコを押しているのかについて、地域住民のアイデンティティと観光―開発という資本主義のロジックとの複雑な力学があるような気がするが、しょせんまだ余所者の自分にはよくわからない。いまやいきつけの床屋に初めて行ったときに、このシネマネコの従業員か何かと勘違いされて、あなた先週あいさつに来ていたでしょと言われたのはびっくりした。俺によく似た人が映画館にいるらしいが、ドッペルゲンガーに会うと死んでしまうのが怖いから、いまだ映画館には行っていない。散歩のついでの遠巻きに眺めたことならある。

もうすこし歩みを進めると、レトロ押しの総本山たるレトロ博物館があり、にぎわっているともにぎわっていないとも言えないくらいの人の出入りだが、この博物館は、昭和30年代ブームやレトロツーリズムブームのかなり初期である2000年代初頭に建てられたようだ。ここもいまだ行っていない。それは人為的なレトロにいささか変な気持ちになるからである。青梅のレトロは、諧謔を感じさせず、商魂たくましさもあまり感じない。不感症的な諦念と、突然の来客が訪問した時の慌てたような身支度を、この人為的なレトロ表象に感じる。この「レトロ」を打破しなければ、青梅を歩く意味はない。

通りを面した向かいには、祭りの法被などを専門で売っている店がある。この店がいまだつぶれておらず営業し続けていることが、祭りに賭ける異様な情念を感じさせる。この店には、おそらくオリエンタリズムをぎらつかせた観光客か、ちゃきちゃきの青梅っ子しか入れないだろう。自分たちのような半端な余所者は、店の居住まいに気圧されてしまうから、まだ入れていない。世界の終わりのときにだって、祭囃子を吹き、山車を引くというだけの覚悟がないのだ。

もうちょっとだけまっすぐ行くと、死んだ魚民が見えてくる。いや店舗としては生きているのだが、一階と地下にのみ魚民が残り、他のテナントのほぼすべてが死んでいる。それなりに大きい商業ビルがゆえに、魚民の明かりが残っていることが、より一層空虚さを感じさせる。この魚民をみた時にこんな風景を幻視した。残飯をあさって、尾頭付きの魚を見つけるが、内臓も肉のほとんども腐り果て、異臭を放っている。その腐敗した部分を丁寧に腑分けして、ほんの少しだけ残った肉を、肩を寄せあい分け合って食べる痩せた亡者を。

魚民のところを右に曲がれば、もうそこには青梅駅のロータリーがある。この駅舎周りの情景は、すくなくとも80年代からほとんど変わっていない。青梅市図書館が公開している以下の動画を見ればわかる通りだ。なんなら40年前の方が、いまより現在に近く見える。レトロとは、過去を演出しているのではなく、過去に廃棄されていることの「文学的」修飾なのではないかと思う。

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もう大尾に近づいてきた。実のところ、もう少しだけ青梅駅周辺について語ることもできる。たとえば、駅横の新しくなった道の駅が、映えるようなレトロを押しつけがましく主張していて、そのフォニィに呆れるほかないとか、夜に通りかかったときに、空虚な駅前の古ぼけたベンチで、3-40代の夫婦が、寒そうに身を寄せながら、発泡酒のロング缶を飲んでいた光景の美しさとか、そういったものだ。だが、そうしたこまごまとしたことは、もう通り過ぎてしまった。

一つだけ、本当に見てもらいたいものがある。この散歩にほとんど目的めいたものはないが、強いて言うならば、青梅の過去への悼みと現在の痛みを未来に投棄することによる糊塗を足先から感じたいのだ、とすでに述べた。実のところ、この感情は、エトランジェの思い付きではなくて、青梅の土地から滲み出た感情でもあると俺は思っている。それは一つの、青梅の土着民により起草されて展示された文章に凝縮されている。この文章をよく読むために、この文章に注釈を入れるために、俺はいつも歩いているといっても過言ではない。

平成28年に開かれたらしい、「仲通りレトロギャラリー」という写真展で草されたものらしい。青梅駅からすこし永山公園に歩いた先の写真屋に、そのギャラリーで展示されたであろう写真とともに、それはある。それはこのように始まる。

「いま、青梅の町は日に日に枯れていくように思います」

もはや取り壊されつつあるが、駅前の長崎屋という百貨店には、おもちゃ屋レコード屋など、さまざまな娯楽や文化があり、屋上のレストランでは一日200食ものお子様ランチが売れていたことをこの文章を通じて知った。過去を想起して溢れてくる幸福な家族連れ、なかでも玩具を買い与えられ、屋上でお子様ランチを頬張る子供は、その土地に未来があったことの換喩だ。この文章の書き手は、その日々がもはや戻らないことをわかっている。書き手は、自らの過去への郷愁を振り払おうとも振り払えないまま、過去の暖かな未来を幻視している。観光客の目から見た「レトロ」では捉えきれない、破れゆく町の声がここにある。いつまでも残されているのかわからないが、この文章を読むためだけに、青梅駅まで観光に来ても良いと思う。

これからも、おそらく青梅を歩くことになる。そして今のように何かを書くかもしれない。その時の自分が、いまだ根無し草なのか、根を張った住民なのか、観光客なのかはわからない。それでも、母指球から地面からの反発を感じながら、上下左右に揺れるこの視点とともに、青梅を歩いていこう。

 

青梅を歩く①

およそ一年ほど前に友人と一緒に青梅の一軒家に引っ越した。シェアハウスの理由はいろいろあるが、そのあたりは割愛する。とにかく、東京の中心に出るためには、一時間半から二時間はかかるような、この辺鄙な地に住み始めて、ようやく慣れてきた頃合いだ。

引っ越してから、そして今でも、よくこの街、いやこの土地を歩いている。夜の八時をすぎると、街灯も少なく、車の音もほとんどしないこの土地を、しんとしてすれ違う人もほとんどいないこの土地を、まるで踏みしめるかのように歩いている。拇指球から感じる反撥を受け止めながら、ここが自分の住む場所なんだと確認するかのように、青梅駅までの道をよく歩いている。

 

しばらく前に、鹿を見た。

場所は、家からしばらくのところにある、登り坂を上がり切り、少し下って、勝沼神社の狛犬を右手に見える道のところで、鹿を見た。

一応、形式的には東京都に含まれるはずの地で鹿を見るとは全く思わなかったので、それを小さい女の子がバカでかい犬を連れているように見えた。不気味な光景だと感じたあと、それにしてもでかい犬だなあと目を凝らせば、それは鹿だった。鹿を連れている少女!?と横に目を転ずれば、それも鹿だった。2匹の小さい鹿と大きい鹿を、犬を連れた女の子と見間違えたのだ。

いや、見間違えたというよりは、脳がそのように処理したと考えるほうが正確だろう。夜中の十一時を過ぎて、あたりもほとんど光なく、シルエットからイヌと少女を整合的な解釈として脳が作り出したのだろう。四足の獣はおそらく大きな犬で、隣に見えるパタリと倒れた耳をつけた子鹿のことを、おさげの女の子だと認識したに違いない。この話を誰にしても信じてもらえないと思って、慌てて写真を取ろうとしたら、左手にある雑木林のようなところへと、二匹連れ立って跳ぶように駆けていった。

この鹿にあった道は、とても長い下り坂だ。ということは、上るのが厳しい急勾配でもある。初めて、物件の見学に来たときにはこの坂を登ったのだが、寒い冬のはずなのに、息が上がり、心臓の拍動が強くなり、こんなところ住むわけねえよとグチを叩き合っていた。たしかそのときに腰の曲がった老人が同じ急勾配をカクシャクと歩いていて、腰の曲がり方と傾斜から、まるでマイケル・ジャクソンのゼログラビティのように見え、息を切らして歩く自分たちとの差に愕然としたのち、この傾斜に耐えられる人間が残りそうでない人は淘汰されているのではないかと少しの恐怖を覚えたのだった。だが、結局そこに住んで、いまや坂に慣れ親しんで息も切れないのだから、われわれもゼログラビティの住人になったのだ。人生はどう転ぶのかよくわからない。

話を戻そう。鹿とあった場所をさらに下っていくと、坂の終わりに青梅線の踏切がある。東青梅ー青梅駅間の電車だ。どうやら一車線にするみたいで、暫く工事をしている。夜、踏切を待つときに、電車が通過するのを眺めると、あたりの暗闇を切り裂くように、あたりの静けさを切り裂くように、電車が横切っていく。ほとんどの場合、そこに人はほとんど乗っていなくて、回送列車じゃねえのか?と見間違える。

踏切を渡ると、青梅基準ではとても大きな道路につく。そう、旧青梅街道だ。道路まで来て振り返ると、勝沼神社表参道と書かれたバカでかい石碑があるのが見えるだろう。そう、不釣り合いにバカでかい。不必要なくらいに大きいし、石碑はほかのところにもなんかたくさんあるのが青梅の特徴だ。

このクソデカ石碑を見て、いままで来た道は、勝沼神社への表参道だったわけだと気づくが、だからといってとくに感慨もない。余談だが、この間、郵便物を出しに、平日の昼間にこの表参道を降っていたら、引率の先生と中学生か高校生の集団とすれ違い、大きな声で挨拶をされたのだが、たぶんあれは不審者を見たら挨拶をしようという威嚇としての挨拶だったと思われる。表参道の石碑を背に、右に曲がると青梅駅に、左に曲がると東青梅駅につく。およそ、この表参道の入り口のあたりが、青梅駅東青梅駅の中間地点になる。さて、いつもの通り、特になにも目的もないままに、青梅駅までの散歩をしていこう。

文学との距離

かつて、酒の席で、尊敬する不埒な友が、祖母の死を契機に文学に向かったのだと漏らしたことに、私はひどく驚いた。なぜなら、極めて対照的な事態が自分の過去に生じていたからである。

 

祖母の死という出来事は、私から文学を遠ざける作用をしたのだ。私は文学を選ばなかった。文学も私を選ばなかった。そのことに不満はないものの、なぜ私は文学を選ばず、選ばれなかったのかについて考えてみたいと思った。

 

私が文学を選ばなかったのは、最も強度の高い言葉がただの音として、反復され流通しうる意味としては結晶化しないのだと感じたからである。それはまた、これまで、そして現在でも、自分の吐く言葉の空虚さを思い知ったからでもある。祖母が死んだ時、私は嗚咽とともに、あゝという音を吐いた。それのみが真正であった。

 

祖母の死を枕に、高校の時書いたスピーチ大会の原稿が、今もまだ残っている。その原稿は若気の至りもあり詳述を避けたいが、徹頭徹尾だれかの言葉のコラージュであるという印象を抱かせてしまう。そこでは、なぜか私はサルトルの人は自由の刑に処せられているという言葉をひどく大事そうに引用していた。尊敬する不埒な友はたまたまサルトル研究者なのだが、彼に読ませればおそらく鼻で笑われるだろうし、それだけでなく、私は当該箇所を含むサルトルの著書を読んでいないのだ。思うに、いまだその時の経験を消化しきれていなかったのだろう。そして今もまだ、そこに立ち止まる自分自身がいるのを感じる。こうした饒舌に語る裏で、実際に人と話す自分もペラペラと良くいろんなことを語るんだが、そのことは何か本当に正しいものから、直視したくない真実から心を離そうとする賢明な努力のように思える。論文などとは違い、iPhoneのフリックでおよそ自動的に吐き出される言葉を紡ぐことは、触知し得ないにも関わらず、それを求めるような自分の心にある何事かをセラピーするような振る舞いだ。

 

私は何も語れない。そのことの裏返しにある無数の言葉が、私にこうした散漫な叙述をもたらす。

祖母が死んだ時、肺腑から押し出された息があゝという音として自分の耳に響いた。悲しみのあまり離人症的な状態になるままに、私はその音を他人事のように聞きつつ、これこそが本当に初めて自分が誰からの受け売りでもない真正な言葉を吐いたのだと思った。だがこれは物語にもならないし、少なくとも現在の自分でも、それを適切にエミュレートできるようなストーリーや詩を書けない。

 

文学なるものについては、離れてしまいそこに辿り着けなかったので良くわからないのだが、おそらく、このような真正さに関わるような側面はあるように思う。ひどくナイーブで、にも関わらず唯物的な、真理の次元を文学を通して考究しようとすることが、自分にはできなかった。

「喧嘩稼業」連載再開しろ

異世界転生した。ソファーにもたれかかったら、ボツリヌス菌が付着した針が刺さっていた。寝てるうちに、白い空間に通されるなんてこともなく、ナーロッパとも揶揄される、スキルとかレベルとかある都合の良い異世界に行くこともなく、俺が生まれ落ちたのは元の世界と寸部狂わぬ、いや寸部だけ狂った世界だった。

変わったのは本当にごくわずかだ。まず物心ついて少年ジャンプを読みはじめて気づいたが、漫画ワンピースの位置にトリコがあった。つまり、尾田栄一郎のポジションに、島袋光年のいる世界だった。

この世界では、尾田栄一郎の尾の字もなく、しまぶーがこの世の春を謳歌していた。世紀末リーダー伝たけしは打ち切りにならずに大団円を迎え、トリコが100巻を超え未だ長寿の漫画シリーズになり、ハリウッド映画化がされそうな世界だった。

 

そんな俺も成長していまは2020年。東京五輪の開幕が迫っている。どうやら、なんらかのバタフライエフェクトコロナウイルスが吹き飛ばされたらしい。今日、東京五輪の開会式のプロデューサーが島袋光年であるということが発表された。何を考えているんだ。開会式で釘パンチでも打つのか?

 


俺だけは知っている。前世でのたけしの打ち切り理由を。ついでに、この世界と元の世界のちがいに気づいたのだが、この世界のダウンタウンの位置には極楽とんぼがいて、さらに、だいたいラーメンズのようなサブカル受けを板尾創路が受け持っている。

 


この世界の神は木多康昭だ。神は俺を苦笑いさせるために存在している。

 


ふざけ尽くした胡蝶の夢だろうと、一笑にふしたかったが、そのまんま東が総理大臣候補となり、マスメディアで報じられているのを見れば、一目瞭然だ。そして、ひろみは復帰することなく、跡形もなく消えている。

 


嗚呼、この世界は、木多康昭の世界だった。裏付けるように、彼は神であるため、どうやらこの世界には存在しないようだった。

 

とりあえず神よ、喧嘩稼業の続きはよ。代紋take2オチと、隕石オチだけは勘弁な。

一生朝井リョウ読めないボーイ

朝井リョウ

 

この名前を出すだけでも、心臓の近くがキリリと痛む。いや、読んだこともないし、完全な赤の他人だし、今後も読むことはないだろう。ただただ、ひたすらに、意識をしている。おそらく皆さんも、多感な時期に一切話したことない人間を、勝手に好きになり、話すこともなくその人の存在が肥大化していき、話すことも告ることもなく、ひたすらその人が記憶に刻まれているという気持ちの悪い青春遍歴を送ってきたかと思うが(送ってないなら今すぐ読むのをやめろ)おおむね朝井リョウという存在への感情は、そういうものだ。愛というよりは、ねじ曲がり歪みつくした自己意識やプライドが、俺の中で朝井リョウの存在を巨大にし、安易に消化するのを許さない。


とはいえ、自分は小説家に本気でなりたかったわけではない。たしかに、本をたくさん読む陰気な思春期を歩んだ人間の常として、小説家を夢見たことはあるが、完成させた作品なんてなくて、文芸とかの部活やサークルにも所属せず、とうぜん小説賞に投稿したことなんてない。いわばワナビのなりそこないであって、華々しく活躍している小説家だからという理由で、羨望や嫉妬を抱いてるわけじゃない。ほかにも、若くして時代の潮流に乗り、世に出たクリエイター全てに自分は強い感情を覚えてきた。主にマイナスのベクトルで。でも特になぜか朝井リョウについての感情は強い。絶対に読まないぞ、と読む前から決めているくらいだ。なぜだろうか。誰もわからない。俺もわかっていない。


朝井リョウが太陽だとすれば、自分は湿った巨岩の真下で蠢く生態のよくわからない悍ましい蟲である。蟲が太陽を見ることは不可能であり、一度巨岩の外に出れば乾燥して焼き尽くされ死んでしまう。そんな風に自意識を拗らせてきた。

 

この話には、簡潔な意味段落も、複雑な論旨の展開もない。なぜかといえば、朝井リョウに筋違いの嫉妬をしているために読むことさえできない、というだけのことを、ダラダラと手を替え品を替え、苔むした岩の底から叫ぶだけだからだ。興味ない人や、朝井リョウのファンは、たまにいる街頭の異様人間がわけのわからないことを大声で叫んでいると思って甘く見てほしい。というか許してほしい。甘く見てくれ。何も言わないでくれ。石を投げないで。


朝井リョウ

 

もう名前からして恐ろしい。これが本名かペンネームかさえ知らない。だが、この人物がこの名前を著者名にして小説を書いていることは知っている。なにはともあれ、朝井である。朝の井戸。なんとなく、穏やかな日差しの爽やかさと、底の深さを感じさせる。穏やかなものの裏にある、後ろ暗く力強い情念の存在をそこはかとなく予感させる。


リョウ。リュウでもリャウでもない。


リュウは力強すぎる。「男」がそこにいる。龍でもよくない。朝井龍。同じ物書きでも、たぶんヤクザライターをして、実録物を書いている。愛人は二人いる。

 

リャウはミスタイプを疑わせる。朝井リャウ。作品によっては単にリャウだけ。あえてその名前になっていたら、多分彼の作品は、書店に並ぶにしてもビレバンの井戸を超えて世間に出て行かない。いつまでもマイナーな(その中でもビレバンに並ぶくらいはメジャーな)作品を、自分のみが手塩にかけて愛しているのだと簡単に勘違いする一部のファンのための作家兼エッセイストになってしまう。web記事のインタビューで「なぜリャウなんですか?笑」というライターからのもはやテンプレとなった質問に、毎回人を喰った答えをしてはぐらかしそうだ。Wikipediaに[出典不明]の注記がたくさんつけられながら、異様に熱量のあるファンに、世間の知名度とは乖離した超長文の、無駄に詳細な記述がされそうであり、そこには、複数の名前の由来の説が箇条書きで書かれている。

 

リョウ。

 

ひらがなでも漢字でもない。カタカナのリョウなのだ。

涼ならどうか。朝井涼。これでは朝ドラのヒロインが最初に恋をする男性になってしまう。たぶん、途中で事故死する。

 

亮ならどうか。

 

朝井亮。だめだ。中堅商社の営業二部の係長である。禁煙して3年が経ち、妻との間に3歳の子供がいて二人目を考えているが、マンション購入も考えて、どちらを優先するか悩んでいる30代の男性である。実は妻は不倫していて、それに気づくのは全てを失った46歳の時である。


朝井リョウ。やはりこれなのだ。穏やかさと不穏さのハーモニーから一転、キリッとした、すこしプラスチックめいて整った横顔を幻視する。やはり、名前からして恐ろしい。

心臓の痛みを抑えながら、Wikipediaとインタビュー記事をさわりだけ読んでみると、震えが止まらなくなった。大学在学中デビューは知っていた。だから読むことがなかった。この長文は徹頭徹尾、朝井リョウのことを語る体で自分のことを書き連ねるというフォーマットで構成されているが、楽しかった大学時代に、楽しさと比例するように育っていたのが、自分は何者にもなれないという強い焦慮と絶望だった。案の定、留年して就活もそこそこに放棄し、何かになりたいと、自己啓発本やらを読み、ブログを書いてみたり、アフィサイトの作り方、ライター入門、SEO入門、プログラミング入門とか、色んなものに片足だけ突っ込んで、すぐに続けられずにやめてしまうような、一山いくらの量産型大学生のようなことをして、己の渇望を慰めていた。まるで喉が渇いたから塩水を飲み続けているようだった。


彼は同じ時期にそんな雑魚を飛び越えて「何者」かになってしまっていた。返す返す言うが、本を読んだことはマジでない。ただ、小説のタイトルやあらすじは、否が応でも目や耳に飛び込んでくるので知っている。ただただ、何者かになった人間が、何者にもなれないかもしれない人間の臓腑を麻酔なしでメスで切り分けるような小説が書かれているのだろうと被害妄想を抱いている。


さらに恐ろしいことに、朝井リョウは就活もして大学在学中デビューしたにもかかわらず就職している。これがトドメだった。正直、はじめから専業作家だったら手に取ったかもしれない。でも、おそらくキャリアやライフコースを考慮して、朝井リョウは就職した上で兼業を選んだ。20代前半でそんな選択ができること自体、自分とは隔絶している。もしも自分にそれだけの才能があり、評価を受けて賞なんて取ったら、すぐに天狗になって世間を舐めて、当たり前のように就職なんてするわけがない。そしてたぶん30代で尿路結石になったろう。おそらく朝井リョウは尿路結石にも痛風にもならない。若くしてデビューし、人生設計を考えて、小説家を続ける。それは自分から見れば、頭の上に水がたっぷり入った桶を乗せながら全力疾走して富士山を登るようなものだ。インポッシブル。

 

このやりどころのない感情はどうしたらいいんだろうか。なんなら顔も怖い。怖いというと失礼だから表現を改めるが、ふつうに仕事できそうフェイス。今は専業作家だが、就職先でも問題なくやっていけたような顔をしている。小説でも完璧なタスクマネジメントで、締め切りを破ったことのなさそうな顔をしている。そんな顔した人間がすばる新人賞を初の平成生まれとして取るんじゃない。俺はまだ小説家志望と言い切れないくらいの熱量だし文学部でもなかったからセーフだが、もしも文学熱と湿度がもう少し高いタイプの人間だったら即死だった。死因は朝井リョウ。あなたに前科がないのは、俺がそこまで小説家ワナビじゃなかったからだし、感謝してほしい。

書いていたら、なんか普通に読みたくなってきた。こういうよくわからない感情に支配されていたことを、書くという行為を通じて外に出せたからかもしれない。でも読まない。俺は朝井リョウを読まないぞ!

 


「今度は星野源が怖い」