たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

工場での日々

告白というほどのことではないが、私は大学を正規の就学年数で卒業していない。その理由はただ怠惰が故である。

 

大学を卒業したのが2014年の6月だった。

3月に卒業できない、つまり四年で卒業できないというのは、三年生の終わりにわかっていたことだった。

まあ、こういうのは頭でわかっていても、耐えれるものではない。

 

留年には理由がきちんとある留年とそうではない留年がある。前者は留学や(一文字違うだけでとても大きな違いのある言葉だ)、不如意な就職活動、休学して色々違うことをやりたい場合などによる留年である。これらは基本的に許される。

 

後者は、学業面での怠惰を理由に留年せざるをえないという類のものである。これは排撃される。まあ自業自得なのだが。

 

どういうことが起きたのかといえば、返すべき時にツケを一気に支払ったが、返せなかったというそれだけの話だ。本気になるのが遅すぎた。あるいは単なる能力不足。さらにまた馬鹿なことに、卒業できないという連絡を親にしたのは、卒業式というハレの日の着物を、みんなが決め始めようとした時であった。そのため小さな頃から、悪いことも特にせずに、コツコツとためていた親からの信頼のほとんどを失う羽目になった。

 

ただ、怠惰のツケを支払う中で、手に入れることとなってしまったロスタイム(いまはアディショナルタイムというのか)が自分にはとても辛かった。一番の辛さは友人が新しい生活に向かって旅立っていったことだ。変わらない自分と変わっていく彼ら。置いて行かれている感覚は想像以上に堪えた。

  

ここで書きたかったのはそんな恨み言ではない。

 

大学を卒業して何をしようか考えていた。マルチタスクをこなすのが苦手で単位を取るのに必死で就活をほとんどしていなかった。弟が下に三人いて父親が定年を迎える。それでもなお、大学院に行こうと思った。これは師匠に会う前で、師匠の強烈な誘引もなく、大学のGPAが1点台であり、相談する人すべてに止められたが、何かに突き動かされるように大学院に行こうと思った。6月から8月、プールの監視員をしながら大学院試験の勉強をしていた。そして夏の受験に受かって師匠の下に行くことになった。

受験が終わったら実家にいったん戻ることを決めていた。ずっと東京にいるのはとてもお金がかかる。実家でしばらくバイトして大学院の学費や生活費などを貯めようとも思っていた。

あるいはそんな物質的な理由ではなくもっと情緒的なものだったのかもしれない。何ものでもない自分が、そのまま東京にい続けても、空しさが募るだけだと実家に逃避したのかもしれない。あるいはダラダラと続いた大学生活に一度きっちりとした、ケジメ、をつけたかったのかもしれない。

ともかく2014年の11月から3月末まで実家でバイトをして金を貯めていた。

 

最初は有名な牛丼チェーンで働いた。今でも思い返してはらわたが煮えくり返るような経験をして、一か月でバイトの連絡先をすべて着拒して、バックレた。

次はトヨタの孫請けのプラスチック部品工場のライン工だった。三ヶ月間、週五日、フルタイムの八時間働いた。

得たものは、自分は単純作業がそこまで苦ではないという気づきと、いくらかのまとまった金、そして工場で働いたり肉体労働をすることを過剰に意味づけるインテリの虚妄を攻撃することのできる経験だった。三つ目は別にいらない。

工場で働くことは、まったく悲惨でも辛くもなかった。はっきり言って、周りが当たり前のようにこなしていた接客業や塾講師などのバイトの方が自分にとって百倍はつらい。工場内は機械の音でほとんど声が聞こえないため従業員同士の雑談とかはほとんどない。簡単な業務を教えてもらい、覚えたら、8時間全くしゃべる必要がない。それが苦痛なのだろうか。そのため他者と話す必要がないというのは、心地よかった。休憩時間でも他のバイトや社員に話しかけられないような空気を出して、専門書を読んでいた。

工場で働くにつれ、定時に動き、定時に帰ることの偉大さを知ることになった。そして、ある時工場長補佐に、就職できなかったらいつでもきなよと言われた。これははっきりとわかるお世辞だ。それでも、最後の居場所が用意されたという感覚は、自分にとって重要だった。工場は私にとってセーフティネットなのだ。