たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

笑われることも笑わせることもなく--映画JOKERについての試論⑴

「笑われてやるんじゃなくて、笑わしてやるんだ」という深見千三郎の芸人としての生きザマは、オイラの生理と感性に合っていて大いに感化させられた。

ビートたけし,1992,『浅草キッド新潮文庫版)

 
かつて多くの喜劇役者、コメディアン、作家を輩出した浅草の由緒正しいストリップ劇場に、大学を中退した親不孝者のフーテンが足を踏み入れるのは1972年のことだった。エレベーターボーイからはじまった彼のキャリアだが、粋でモダンな座長、深見千三郎に師事することで、コメディアンとしての才能を開花させていくだろう。漫才師になって浅草フランス座から飛び出てしまうことで師から勘当されたものの、偉大な師への敬慕は、自叙伝的小説たる「浅草キッド」に描かれている。冒頭引用したように、「芸人は、笑われてやるんじゃなくて笑わしてやるんだ」という一言で集約された芸人論は、彼の漫才にも大きな影響を与えたように思われる。漫才は芸ではないと深見が考えていたにしろ。さらに言えば、この生きザマは、多かれ少なかれ現在の芸人や、人を笑わせる職業の人びとにも(実現できているかは別として)重要なものだろう。というのも、笑わせることと笑われることの間にある大きな断崖に、最も意を払うのが芸人だからだ。というよりは、この断崖に目を凝らし、笑わせることを指向し続けることで、人は芸人になれるといった方が良い。「浅草キッド」は、ビルドゥングスロマンであり、その主人公たる彼は笑わせる人=芸人になっていった。では、jokerの主人公アーサーは、コメディアン=芸人になれたのだろうか。

 
言うまでもなく、フーテンから芸人になり、さらには映画監督としても世界的名声を得た男の名は、ビートたけし北野武という。バラエティや、たけし軍団での殿としてのふるまいとは別に、ツービートの漫才を見てみると、そのスタイルの攻撃性とともに、明らかに彼の顔面は笑っていないことに気づく。また自らの映画に主演する際も、彼の顔の印象はどこか不気味で、笑顔とは程遠い。おそらく、笑わせるときに笑うことは不純である。自らが笑って仕舞えば、起こした笑いを、自らの芸のためだと言うことができない。というのも、日常であるように身体動作としての笑いは感染するからだ。われわれは「意図せずに」笑ってしまうことがある。笑わせること/笑われること、そして笑ってしまうこと。これがJOKERを貫く、重要な一つの主題であることを論じていくことが試論の目的だ。さて前説は終わり。場は暖まってきたか。 悲しい喜劇の話をはじめるとしよう。


ジョーカーというバットマンシリーズにおける最大のヴィラン誕生の物語として描かれた本作は、道化として働いていたアーサーが、仕事、医療の公的扶助、母親などを順繰りに失い、世界からの悪意に翻弄される中で、道化とコメディアンの奇形的結合体=ジョーカーになり、都市騒擾を巻き起こすシンボルとなる様を活写している。ジョーカー誕生の物語として、つまりバットマンシリーズのスピンオフとして作られたとはいえ、作品として独立して楽しめるものとして仕上がっている。とはいえ、傑作の評と反して、筆者の周りでもJOKERを楽しめないとの声が聞かれた。実際、娯楽として楽しめないことも十分理解できる。劇中を通してただただ悲惨に巻き込まれるアーサーの姿に、陰鬱さのみを読み込み、救いのない物語として受け止められても致し方ないほど、ひたすら彼はかわいそうである。しかし、物語の後半にアーサーが、人生は喜劇だとわかったと言う時、悲劇もまた喜劇であることが明らかになる。悲劇として感受することは誤りではないが、正しくもない。悲劇はまさに喜劇でもある。

 

本作の監督が「ハングオーバー」の、つまり最高のバカ映画の監督であり、フィルモグラフィを見れば他にも多数のコメディ作品を主に撮っていることをあわせて念頭に置くならば、悲劇として陰惨さを演出されたシーンは、演出を変えれば、あるいは取り払えば喜劇の一シーンとしても成立するようになることがわかってくる。具体的にいえば、本作冒頭。アーサーが道化として楽器屋の閉店セールで働いているとき、ヤンキーから看板を奪われ、取り返しに行くと路地でボコボコにされるシーン。あれは、道化として走り回るスラップスティックである。作中時折出てくるドタバタとした追いかけっこは、音楽を変えてしまえば、その瞬間にスラップスティックとして成立する。他の「陰惨」なシーンにおいてもほとんど同様だろう。道化がひどい目にあえば、それは笑えるのである。現代日本のいくつかのバラエティ番組を想起してもらえばよい。身に降りかかった悲惨が強ければ強いほど、それをはたで見ているやつらから笑われるのはよくあることだろう。だから、陰惨さは(嘲)笑われることの陰惨さであり、悲劇はまさに喜劇である。

であればこそ、彼は笑われる側から笑わせる側へと華麗な転身を試みたのではなかったか。では、アーサーはコメディアン=芸人になれたのか?

(続く)