たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

無内容な

論文とかお堅いものを読んで書いたりしていると、頭がカチコチになる。知識は自由をもたらすという信念には同意するのだが、一方で真理を追求することに付随したさまざまな文体に取り囲まれて、すぐに論理的な関係が気になり、ふわふわとした、面白さや気持ちよさを目的とした文章が書けなくなっていく。まあ別に誰に頼まれたのでもないんだから、書かなくても良いんだけど、久しぶりに昔の文章を読んで、懐かしみながら、どこか遠い誰かの書いたものを読むようで、笑うと同時に悲しみも覚えた。これは、エッセイであって、論文でも論考でも批評でもないわけで、必要なのは書くという意志と書くための道具だけだったりする。とはいえ、この意志を持ってくるのが難しい。明晰でわかりやすく、主題を一貫させ、データを元に示すのだ!という声が(実際できているかは別として)頭の中で荘厳に鳴り響く。ゆるーい文章を書こうものなら、その声の主が金属バットを持って俺をぶっ叩くんじゃないかと不安になる。この不安っていうのは、楽しみと仕事のような二分法を前提としていて、文書を書くこと=研究=仕事なのだから、その労苦に不純物をまぶすなどけしからんという心のモーレツサラリーマンによってもたらされているだろう。では楽しみと仕事の二分法を取り払えば良いかというとそう単純にもいかないのが世知辛い。楽しむように仕事をしろという言葉が、基本的に安い自己啓発に過ぎず、仕事終わりにストロングゼロを流し込むのと機能的に大差ないことは明らかだ。それは楽しめ!という強迫を伴っていて、結局働かさせられた苦しみを一時的に麻痺させるドラッグに過ぎないことはもうみんな気付いているだろう。実際麻痺させることに自覚的になれる分だけストロングゼロの方がマシだ。楽しめとかみんな踊れとかいってフロアの中心で指示するやつは、踊ってもいなければ楽しんでもなくて、猛禽のような目でこちらを観察しながら抜け目なく金をポケットから取り去っている。

こんな現代社会のことを雑駁に論じたいわけではないし、正しいなんて思わずに聞いてほしい。大事なのは、ここでもう現れてるような、意味のある文章を書こうとする嗜癖は、体の奥底に沈殿していて、たまに本当に嫌になってしまっているってことだ。この嗜癖から本当に自由になる時は、恐らくないのだろう。そして、労苦との二分法を超えた「楽しさ」もないのかもしれない。ただ、こうして夜勤の休憩中にだらだらと書いていると、なにかを忘れたような、そして同時に何かを想起させるような気になる。頭がフッと軽くなるような感覚。書くことが支援であり治療でありうることを、どこかで読んだ気もするが、この気持ちよさはもう少し手前の、整体やマッサージに行った時の何かほぐれたような感覚が近いのかもしれない。とかく、無目的に文章を書いてみることは健康に良いのだ、とそう大見えを切って、シニア向けにパッケージングして売り出せば、市場も急拡大で、ノンストップライティングの専門家として、MK法でも捻り出して商標登録して、生きていこうかしらと思う。それは冗談だが、まあ悪くない着想だから近いことはすでにやられているだろう。市場を出し抜くのは容易ではない。ああ楽に金を儲けたい。こういう楽な方に楽な方に流れる精神をギリギリのところで制御しているのが自分の中にあるアカデミズムの規範だから、もう少し固くなった方が良いんだろう。今の自分はおそらくサナギの状態で、外からは固く見えるけども中はぐちゃぐちゃで、きっといつか羽化し、立派な博士様になり、故郷に錦を飾ろうとして、眩い篝火に突っ込んでいって死ぬのだ。言いたいことを簡潔に示せとまた心の閻魔様がいうもんだから仕方なく答えるとすれば、楽して金が欲しいし、論文を書いて研究を生業にしていきたい、この二つを総取りしたい。しかし煩悩を振り払うのはまだまだかかりそうだし、羽化せぬまま自らの体を腐らせるようなことだけはないようにするには時折無内容なものを書きつつ、体を整えていく必要がある。ちょうどこの文章のような。