たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

良いこと

寮の周りを深夜友人と散歩していたら、身なりのそこそこ整った老人に声をかけられた。老婆は府中の伊勢丹までの道を聞いた。瘋癲の輩、2人にである。朝四時のことだ。当然不審だ。不審な姿をしている不逞の輩に声をかけざるを得ない老婆に対して、不審の念を感じざるを得なかった。それも、府中の伊勢丹である。聞かれた地点から5キロほど離れて、それなりに曲折を経た場所にある。

 

最初は我々も道を教えようとしていた。そのうち疑念が頭によぎり、なぜ伊勢丹に行きたいのかを尋ねた。すると、そこだけが覚えてる場所だと言うではないか。そこに至り、道がわからなくなって歩いている行旅人だと理解した我々は、とりあえず身の内を聞きながら交番へ誘導した。

 

飴ちゃんをもらいながら、どういう曲折を経てここまで至り来るのかを聞いていた。彼女の脚が疲れていたので、すぐそばの交番まで向かう。彼女の持つ荷物は背負った。少し重かった。

 

交番に人はいなかったが、直通の電話はあった。友人が電話をして、その間、彼女の息子や孫の話をして落着する。家の場所がわからなくなることを責めても益はない。そもそも我々は迷惑をかけられていないが、深く沈みそうな彼女を励ましつつ、ポリ公の到着を待つ。

 

ポリ公来たりて、我々の住所やら電話番号を控えて、返された。あの個人情報を悪用されないことを祈りつつも、老婆の今後を祈る。夫に先立たれ、一人暮らしで、息子と義娘と孫に近居しつつ、身なりの美しさを志向する彼女の。

 

「ボケても幸せな社会」の実現もついでに祈ろう。必死に生きた先が、家から飛び出せばピンボールのように色んなところに弾かれる人生はごめんだ。そんな生には中指を。来るべき良き生を。その手助けをしたことには胸を張り生きよう。友とともに。