たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

青梅を歩く③

青梅街道を一本入った七兵衛通りを、青梅駅を過ぎてしばし歩いていくと、交差して、陸橋がかかった比較的車通りの多い道路がある。この道路の名は調べてもよく分からなかったのだが、今日はここを歩いてみよう。右折する。この道路は、山と山の間を無理やり通したようで、しばらく歩くと、森の圧を感じることになる。

以前、ここを夜中に友人たちと連れ立って歩いたことがあるが、静けさが濃密に存在して、少し恐怖で浮ついた気持ちになったことを思い出す。しばらく歩くと、青梅坂トンネルがある。トンネルの入り口にかかる蔦が、まるで首吊りロープのように見えて、またひどく不気味だった。

昼に来ると、吊られる人を待つようなそのロープは、夜中見たときよりもひどく細く、風にふらふらと揺られて、恐怖よりも頼りなさを感じる。以前は、夜中ということもあり、ここからしばらく歩いて引き返したのだった。トンネルをぬけると、針葉樹林が広がる。その針葉樹林は、樹木の幹が細く白く見える。友人たちと夜中来たときは、時折通る車のライトに照らされて仄かに立つ幹がヒトのようにも見えて、充満した静けさも相まって、こちらをじっと眺め続ける視線さえ感じたのだった。だから怖くなって帰った。でも今日は昼だ。おそらくあと二時間後には日没だろう。密だが疎な針葉樹林を照らす赤らみ始めた空は、恐怖よりも寂しさを印象付けた。

この先にある小曽木という土地は、山の中の小さな平地という意味だったらしい。だから、「夜明け前」をもじって「小曽木は山の中だった」と語っても許されるだろう。茅葺屋根の寺社の建物が残され、ほとんど人の往来もない黒沢から小曽木にかけての道は、山の威圧も相まって、近代という光が届かなかった地にさえ思える。

しばらく、時間が凍りついてしまったような土地を歩いていた。少しだけ、本当に時が止まっているのかもしれないと不安になる。赤光があたりをセピア色に照らし出しているから、まるでゲームのスーパーマリオ3Dでジャンプして絵画に入り込むように、またはジュマンジの映画のように、古ぼけた写真の中へと、気づかぬうちに入り込んでしまったかと落ち着かぬ気分になる。しかし、数日前の降雪から、少しだけ残る、溶けかけで排ガスに汚れた雪のカスが、時間の経過を知らせる。そのきったねぇ雪の残りカスを見て、同じ時が流れていて、凍りついているわけではないのだと安心できた。

 

時間の凍結したような風景は、むしろ拮抗なのかもしれない。時が経てば、ものは壊れ、自然に飲み込まれる。青梅の森林に囲まれた地を初めて歩いたとき、ここが人類のフロントラインであると確信した。いずれここも、森に沈む。苦心して切り開いた土地は、揺れて流れる大地とそれを覆う森に敗北して、我らの痕跡など残らないに違いない。あるいは、森でなく禿げ上がった砂漠になるかもしれないが、どちらにせよ、人の繁栄など、薄氷の上でしかない。そのように、青梅の森は訴えかけてくる。

匂いもそうだ。森の匂いは、鼻につくほど青臭い。マスクを外せば、生/性が鼻腔内で充満し爆発する。引っ越してきたときに、花粉症が酷かったことも合わせて思い出す。充満した生/性の軍勢に対して人はどうか。青梅の、コンビニより多く叢生する寺院の周りに、山林をわずかに切り開き、いじましくも建てられた墓の数は、ひょっとしたら青梅の人口よりも多いのじゃないかと思えてしまうほどだ。つまるところ、自然に対峙する人の勢力には、死の匂いが染み付き、諦めのムードが漂っている。ここで人は死んでいるか死にかけている。どおりでいつも抹香臭いわけだ。すくなくとも、戦いは撤退戦である。今歩いている青梅市の成木や小曽木の地区というのは、とりわけ高齢化率が40%を超えている。濃密な生と死が、我々を囲繞している。

 

おそらくこの生と死の濃密な匂いに、意識せずにアテられてしまったのだろう。青梅に引っ越してすぐに、木を彫ろうと思い詰めた。庭で日がな、腰を下ろして、木に埋まる仏を掘り出そうと思ったのだ。深山幽谷のなかで隠遁した文人になり、幽冥の境をふらつきながら、狂おしく仏を彫りたかったのだ。そう、単に木彫りを作るのではなくて、無性に仏を彫りたかった。仏を彫らなければならない、とさえ思ったし、未だ持ったことはないがいずれ手にする木には、彫られるべき仏が存在していることを確信していた。この妄執は、風車に突撃するドン・キホーテのような自然へのプロテストでもあるし、抹香の匂いへの複雑な意思表示でもあるだろう。だが、未だ仏を彫り当てるどころか、何も彫ってさえいないのだから、いずれ来るべき仏が何を表象するのかはわからない。まだ時折、仏を彫らねばという想いに取り憑かれることがある。

話を戻そう。トンネルからかなり進んだ先で(黒沢のどこかだと思うが)道路の補修工事をしていた。あまりに平凡な光景だから写真に収めてもいない。工事中の道路の脇を、熱気を帯びたアスファルトが平にされているのを、あの道路工事特有の臭気と熱気を受けながら通り過ぎた。どうやらまだ人類は諦めていないらしい。凍った時間のような風景は、絶え間ない補修を通して、人の手を入れ続けることで、ようやく成立しているのだ。拮抗とはこのことである。今は、手を入れて自然に抵抗しているが、時間を凍らせることで精一杯なのだ。

 

ところで、ならされる前のアスファルトのように、固く凍った土地に至る前では、青梅の地が熱く揺れていたことはあったのだろうか。すなわち、時間を溶かして、時計の針を前に前に進め、来るべき未来を、その熱の先に先に目指すような、そんな時代はあったのだろうか。

 

どうやらあったようだ。すくなくとも、青梅の山は揺れた。この話はいずれしようと思う。今その話をするには準備が足りない。

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赤光が暗みはじめた。赤昏い日の中で黒沢川の清流を見ていたら、真っ白なシラサギが川の中で静かに佇むのを見た。美しいと思って写真を撮ろうとスマホを取り出し、少しだけ近づいたら、こちらの気配に気づかれたのか、純白の大きな翼を羽ばたかせて川から飛び上がって空に向かった。その様子も絵になるような美しさだった。ここから遠くへどこまでも飛べ、と勝手なことを念じたが、シラサギは、川の直ぐそばの家の屋根、そのヘリの突端に、飛び立ってすぐに立ち止まった。風見鶏のようだった。本物の風見鶏さながらに、そこで、ピンと立ち、まっすぐ一点を見ていた。それを見ると、こちらが抱いた勝手な念を、恥じ入らざるをえなかった。