たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

迷う

道に迷うことが好きだ。大学院の博士後期課程という当て所ない迷い道にいることを自己肯定するための修辞的な比喩表現ではなく、わけわからん場所で、適当に道を進んで、どこにいるのかわからなくなり途方に暮れる感覚が好きだ。
私はよく道に迷う人だ。これもまた比喩表現ではなく、スマホが便利になるまで、いろんなところで迷っていた。手ひどく迷ったのは何回かあるが、小学六年生の時、自転車で地元の半島を一周するという大冒険をした。あと数キロというところで、曲がり角を一つ間違え、私は全く道がわからなくなった。パンパンに張った足、人通りは減り、緑が濃くなり、人工物は道路と鉄塔くらいしかない。どう考えても道を間違えていたことに気づいた。そこから引き返そうと、来た道へ戻る。体感では1時間、実際には数分ほど漕いで、戻っているかどうかも全くわからなくなり、心細くなった自分は両親に泣きながら電話をかけて、迎えに来てもらった。間違えた地点はすぐそばで、あとほんの少し頑張れば軌道修正できて、自分の足で胸を張って凱旋できたのかもしれない。しかし、冒険の旅は途中で終わりを告げた。父親から煽てられておこなった自転車小旅行は、中学生になる前の子供から少し大きくなるための通過儀礼のような役割を果たすことをおそらく親の狙いとしており、自分はその儀礼に失敗し、子供に閉じ込められる羽目になり、今もまた「大人」になり切れないのだろうか。弟3人は簡単にクリアしたその儀礼について、今でも父親から、迷った場所の近くを通るたびにその時のことを揶揄される。だからだろうか、私は迷うということが嫌いではない。
迷うとはどういう経験か。少なくとも自分にとっては、知らない場所で、あるいは知っていたはずの場所が相貌を変えたようによそよそしくなることだ。特に良いのが、逢魔時、昼と夜の境目の時間である。どこに着くかわからない心細さを抱えながら当て所なく放浪していくなかで、真っ赤な夕焼けに照らされる。いつ休めるかわからないまま酷使された足が鈍痛を覚えてゆき、休みたい気持ちを訴えてくると共に、赤い光に照らされた道ゆく人がみな異質な他者に見え、空恐ろしさから足をさらに酷使させていく。次第にそうした人間もまばらになり、夜の帷に包まれる。世界は色をなくしていく。暗くなると、むしろ道をゆく人がいかに自分の精神を安定させていたかわかるようになるだろう。心臓の鼓動が速くなり、嫌な汗が流れるようになってくる。あなたは、ようやく見つけた郊外の灯りに、まるで誘蛾灯に誘き出された羽虫のように突進していく。そんな経験は、どこか脳の奥底にある自分の知らない経験を呼び起こすような不思議な気持ちにさせる。いまでも、スマホを放り出して、財布に最低限の金しか持たずに迷いたいと思っているが、時勢が時勢なので遠慮しているものの、とはいえ、迷うことを娯楽として楽しめたのは、最後に帰ってきているからだ。何度も迷ったことがあり、遅刻して迷惑をかけたことも一度や二度ではないし、あの小学生の時のように、帰れないかもしれないと強い恐怖を覚えたこともある。帰れなければ、あの赫光のなか、どこにも辿り着けないまま消え去っていたかもしれない。そう想像すると、恐怖とともに、どこか甘美な気持ちも押し寄せる。私は迷いたいのだろう。あるいは、もうここに帰ってきたくないのかもしれない。