たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

バチバチ

今更だが、バチバチという相撲漫画、いや少年漫画の大傑作がある。いや、あった。それは突然終わった。打ち切りではない。雑誌の休刊でもない。

であればどれだけよかったことか。終ったのだ。永遠に続きは描かれない。作者急逝による絶筆である。

 

連載の当初から追ってきた漫画が突然終わったときの虚脱感はすさまじかった。それも、次週から中学生から続いた主人公鮫島の総決算が見られるはずだったのだ。それは、漫画自体のフィナーレでもあり、彼のいのちの一滴を絞り終えた最後。「最後の17日間」と題された最終部は不穏な結末がほのめかされ続け、同時にどこまでも熱い盛り上がりを魅せていた。予期される終末。待っていたのは「神」との結びの一番。速度が上がり、どこまでも読者の感情は盛り上がっていた。

 

突然の絶筆。行き場を失った感情はどこへ行ったのだろうか。無慈悲に作動する慣性の法則は、読者を前方に向かって投げ出した。投げ出された虚空のなかで、われわれはこの物語をどう思えばいいのだろうか。わからない。ともあれ、結末は委ねられてしまったのだ。応答はない。できない。死ぬとはそういうことだろう。

 

突然の喪失は強い痛みを与える。しかし喪失は色あせる。経年による消尽は記憶にも起きる。かつてあったが急に失われたものを語り、書き起こすことは、一つの喪失への抗議であり、痛みを現勢化することでもある。そして同時に、放り出されたあてどなき自身を繫留し直すことでもある。喪とは、儀礼とは、そういうものだろう。応答亡き応答を仮構し、痛みを書き直す。今は亡き良知力の「向こう岸からの世界史」に収められた架空のプロレタリアとの対話は、そのようなものとして理解する必要がある。そして、そうしなければ痛みは癒されないのだろう。痛みを悼むこと。ダジャレのようだが、必要な事のように思う。

 

喪は、直接の知己を得ていなくとも、仲良くなくとも、必要だし可能だ。特に現在はそうだろう。死の近辺で更新の止まったSNSは、まるであたかもすぐに語りだしそうな相貌を帯びる。一種の不死性を帯びてしまう。死なない形象を悼むのは困難だ。悼むのは、死んではいないと否認する無意識を納得させ、彼は死んでいるんだと、そして私もまた死ぬんだと納得を繰り返していく作業に他ならない。

 

バチバチの喪はまだ終えられたと言えないかもしれないが、その死を受け入れることが数年経ってようやくできるようになったような気がする。とはいえ、何度も立ち止まって悲しんでいいのだ。死はそういう悼にも開かれている。