たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

一生朝井リョウ読めないボーイ

朝井リョウ

 

この名前を出すだけでも、心臓の近くがキリリと痛む。いや、読んだこともないし、完全な赤の他人だし、今後も読むことはないだろう。ただただ、ひたすらに、意識をしている。おそらく皆さんも、多感な時期に一切話したことない人間を、勝手に好きになり、話すこともなくその人の存在が肥大化していき、話すことも告ることもなく、ひたすらその人が記憶に刻まれているという気持ちの悪い青春遍歴を送ってきたかと思うが(送ってないなら今すぐ読むのをやめろ)おおむね朝井リョウという存在への感情は、そういうものだ。愛というよりは、ねじ曲がり歪みつくした自己意識やプライドが、俺の中で朝井リョウの存在を巨大にし、安易に消化するのを許さない。


とはいえ、自分は小説家に本気でなりたかったわけではない。たしかに、本をたくさん読む陰気な思春期を歩んだ人間の常として、小説家を夢見たことはあるが、完成させた作品なんてなくて、文芸とかの部活やサークルにも所属せず、とうぜん小説賞に投稿したことなんてない。いわばワナビのなりそこないであって、華々しく活躍している小説家だからという理由で、羨望や嫉妬を抱いてるわけじゃない。ほかにも、若くして時代の潮流に乗り、世に出たクリエイター全てに自分は強い感情を覚えてきた。主にマイナスのベクトルで。でも特になぜか朝井リョウについての感情は強い。絶対に読まないぞ、と読む前から決めているくらいだ。なぜだろうか。誰もわからない。俺もわかっていない。


朝井リョウが太陽だとすれば、自分は湿った巨岩の真下で蠢く生態のよくわからない悍ましい蟲である。蟲が太陽を見ることは不可能であり、一度巨岩の外に出れば乾燥して焼き尽くされ死んでしまう。そんな風に自意識を拗らせてきた。

 

この話には、簡潔な意味段落も、複雑な論旨の展開もない。なぜかといえば、朝井リョウに筋違いの嫉妬をしているために読むことさえできない、というだけのことを、ダラダラと手を替え品を替え、苔むした岩の底から叫ぶだけだからだ。興味ない人や、朝井リョウのファンは、たまにいる街頭の異様人間がわけのわからないことを大声で叫んでいると思って甘く見てほしい。というか許してほしい。甘く見てくれ。何も言わないでくれ。石を投げないで。


朝井リョウ

 

もう名前からして恐ろしい。これが本名かペンネームかさえ知らない。だが、この人物がこの名前を著者名にして小説を書いていることは知っている。なにはともあれ、朝井である。朝の井戸。なんとなく、穏やかな日差しの爽やかさと、底の深さを感じさせる。穏やかなものの裏にある、後ろ暗く力強い情念の存在をそこはかとなく予感させる。


リョウ。リュウでもリャウでもない。


リュウは力強すぎる。「男」がそこにいる。龍でもよくない。朝井龍。同じ物書きでも、たぶんヤクザライターをして、実録物を書いている。愛人は二人いる。

 

リャウはミスタイプを疑わせる。朝井リャウ。作品によっては単にリャウだけ。あえてその名前になっていたら、多分彼の作品は、書店に並ぶにしてもビレバンの井戸を超えて世間に出て行かない。いつまでもマイナーな(その中でもビレバンに並ぶくらいはメジャーな)作品を、自分のみが手塩にかけて愛しているのだと簡単に勘違いする一部のファンのための作家兼エッセイストになってしまう。web記事のインタビューで「なぜリャウなんですか?笑」というライターからのもはやテンプレとなった質問に、毎回人を喰った答えをしてはぐらかしそうだ。Wikipediaに[出典不明]の注記がたくさんつけられながら、異様に熱量のあるファンに、世間の知名度とは乖離した超長文の、無駄に詳細な記述がされそうであり、そこには、複数の名前の由来の説が箇条書きで書かれている。

 

リョウ。

 

ひらがなでも漢字でもない。カタカナのリョウなのだ。

涼ならどうか。朝井涼。これでは朝ドラのヒロインが最初に恋をする男性になってしまう。たぶん、途中で事故死する。

 

亮ならどうか。

 

朝井亮。だめだ。中堅商社の営業二部の係長である。禁煙して3年が経ち、妻との間に3歳の子供がいて二人目を考えているが、マンション購入も考えて、どちらを優先するか悩んでいる30代の男性である。実は妻は不倫していて、それに気づくのは全てを失った46歳の時である。


朝井リョウ。やはりこれなのだ。穏やかさと不穏さのハーモニーから一転、キリッとした、すこしプラスチックめいて整った横顔を幻視する。やはり、名前からして恐ろしい。

心臓の痛みを抑えながら、Wikipediaとインタビュー記事をさわりだけ読んでみると、震えが止まらなくなった。大学在学中デビューは知っていた。だから読むことがなかった。この長文は徹頭徹尾、朝井リョウのことを語る体で自分のことを書き連ねるというフォーマットで構成されているが、楽しかった大学時代に、楽しさと比例するように育っていたのが、自分は何者にもなれないという強い焦慮と絶望だった。案の定、留年して就活もそこそこに放棄し、何かになりたいと、自己啓発本やらを読み、ブログを書いてみたり、アフィサイトの作り方、ライター入門、SEO入門、プログラミング入門とか、色んなものに片足だけ突っ込んで、すぐに続けられずにやめてしまうような、一山いくらの量産型大学生のようなことをして、己の渇望を慰めていた。まるで喉が渇いたから塩水を飲み続けているようだった。


彼は同じ時期にそんな雑魚を飛び越えて「何者」かになってしまっていた。返す返す言うが、本を読んだことはマジでない。ただ、小説のタイトルやあらすじは、否が応でも目や耳に飛び込んでくるので知っている。ただただ、何者かになった人間が、何者にもなれないかもしれない人間の臓腑を麻酔なしでメスで切り分けるような小説が書かれているのだろうと被害妄想を抱いている。


さらに恐ろしいことに、朝井リョウは就活もして大学在学中デビューしたにもかかわらず就職している。これがトドメだった。正直、はじめから専業作家だったら手に取ったかもしれない。でも、おそらくキャリアやライフコースを考慮して、朝井リョウは就職した上で兼業を選んだ。20代前半でそんな選択ができること自体、自分とは隔絶している。もしも自分にそれだけの才能があり、評価を受けて賞なんて取ったら、すぐに天狗になって世間を舐めて、当たり前のように就職なんてするわけがない。そしてたぶん30代で尿路結石になったろう。おそらく朝井リョウは尿路結石にも痛風にもならない。若くしてデビューし、人生設計を考えて、小説家を続ける。それは自分から見れば、頭の上に水がたっぷり入った桶を乗せながら全力疾走して富士山を登るようなものだ。インポッシブル。

 

このやりどころのない感情はどうしたらいいんだろうか。なんなら顔も怖い。怖いというと失礼だから表現を改めるが、ふつうに仕事できそうフェイス。今は専業作家だが、就職先でも問題なくやっていけたような顔をしている。小説でも完璧なタスクマネジメントで、締め切りを破ったことのなさそうな顔をしている。そんな顔した人間がすばる新人賞を初の平成生まれとして取るんじゃない。俺はまだ小説家志望と言い切れないくらいの熱量だし文学部でもなかったからセーフだが、もしも文学熱と湿度がもう少し高いタイプの人間だったら即死だった。死因は朝井リョウ。あなたに前科がないのは、俺がそこまで小説家ワナビじゃなかったからだし、感謝してほしい。

書いていたら、なんか普通に読みたくなってきた。こういうよくわからない感情に支配されていたことを、書くという行為を通じて外に出せたからかもしれない。でも読まない。俺は朝井リョウを読まないぞ!

 


「今度は星野源が怖い」