たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

青梅を歩く②

無意味に大きい勝沼神社表参道の石碑を右手に見ながら、旧青梅街道を歩き始める。裏側を見ると、どうやら昭和62年に昭和天皇の60年の治世を祝して建てられたもののようだ。だが、この裏側を見る人も、そもそも、この石碑を見る人がどれだけいるのだろうか。

歩き始める。淡々と、渋々と、とぼとぼと。肩で風切るような歩き方は、おそらくこの土地になじまない。

そもそもなんのために、青梅駅まで歩くというのか。あんな何もないところに。青梅駅前は栄えていない。駅前のイルミネーションは、活力よりも、キッチュで、わびしく、退廃的な印象を与える。

 

大層な理由などないし、散歩に理由を求めるほど野暮なことはないと思う。強いて言うなら、破れゆく土地を踏みしめたいからだ。ありし日々を悼むような静かな土地を、相反するように、喪失の痛みを新たな賑わいの創出をもって糊塗しようと足掻く土地を、自分の足で踏みしめたいからだ。こんな言い方をするが、私は青梅にとても強い愛着を持っている。シニカルな身振りは破れた道を歩くうちに解消され、足元から囁くゲニウス・ロキを感知するだろう。どこかそれは疲れ果てた自殺志願者にも似て……。青梅はもう死んでいる。だが青梅はまだ生きている。

何度か歩くうちに、いつしか強く感じたことだが、旧青梅街道は見渡しがきく。それは、青梅市の中心地、大都会河辺とも共通している。われわれの家の最寄駅、東青梅駅のお隣、河辺駅を出て、イオンと梅の湯につながるペダストリアンデッキを、仕事で定期的に河辺駅に来るという後輩と歩いていた。そのときに、彼はここからの眺めが最高なんですよ、と言った。何の変哲もない、郊外の光景のどこが?彼いわく、こんな2階くらいのひっくい場所から、街のすべてを見渡せる場所なんてないですよ、といささか以上の毒舌を、それでいて、澄んだ目で言うものだから、青梅住民の自分も毒気が抜かれて追従する笑いをこぼしてしまったのだ。そう、青梅は低い。

青梅の人工物は低いが、山はそれなりに高い。

いずれ山の話をするかと思うが、山から圧迫されるように、身を小さくして居住している青梅の建物は低い。おそらく江戸時代に宿場町であったことの名残りがあると思うのだが、建物の背が低いように感じる。それは旧青梅街道を歩く度に思うことだ。少し背伸びをしたらあたかも全域を見渡せるような高さで、ちょうど建物が切りそろえられているような、少しの不自然さがある。いつでも、青梅の土地を見渡し、何もかもを誰でもない視点から記述を許されるような、三人称の視点に移行できるかのようだ。

 

ところで、青梅と高さといえば、青梅市公式動画というYou Tubeチャンネルに投稿されている、「MY Home, MY OME」という動画がある。

youtu.be

見てもらっても見てもらわなくてもかまわないんだが、新規移住者に青梅に住んで良かったことを聞いてまとめるという体裁で、何人もの新青梅人(ニューカマー)が出てくる。動画で最後の方に出てくる六十代くらいの白髪の男性は、それなりに高いマンションからの豊かな自然の眺望を毎日見て楽しめることを、移住してよかったことにあげていた。おそらく、そこのマンションは特定できる。ネットストーキングなどせずとも、多少青梅の土地勘があれば可能だ。

眼下の景色からして、バーベキュー場のある多摩川のふもとの近くに建つマンションだろう。そこから見下ろされている当のBBQ場で、バーベキューしたときに、おそらくそのマンションを見て俺は、青梅であんな高いところに住んでなんの意味があるのか、と階級意識も含まれた悪態をついたことを思い出した。その男性は会ったこともないし知りもしないから他意はないのだが、いまでも青梅で高めのマンションに住んでどんな意味があるのだろうかと疑問に思う。青梅は低いのだから、その低さにあわせて生きねば、この土地を生きたことにならないのではないか。そしてどちらにせよ、どんなところに居を構えても、囲繞する山よりも低いのだ。山に行けば、すぐにでも(何度も通いすぎて飽いているのと、秋口に不審な黒い四足の獣を見てから行っていないが)絶景を見ることができるのだから、窓から不自然な景色を見ずとも、普段は地を這いずって生きる方が、この地にあっているように思われる。われわれは三人称に移行してはならない。

 

水は高きから低きに流れるというが、当時非正規雇用で、収入も乏しく、シェアハウスで男二人暮らしというのは、ほとんどの場所で断られて、都心どころか中央線沿線からさえ流れて、われわれは青梅線のターミナルまで流れてきたのだった。低いところに住んでるんだから、少しでも高さにこだわるマウントを見せてんじゃねえという思いが、青梅で高めのマンション住む人間への悪態に滲み出ているのだろう。青梅は低いのだ。この低さを、低さに見合った視点で記述しなければならないと感じる。だからこそ青梅は歩かれなければならない。だからこそ青梅を歩かなければならない。

 

青梅は低いが、威信をかけた共同体のモニュメンタルなものは豪勢に大きく作ろうとするのかもしれない。それは勝沼神社表参道の石碑以外にも見て取ることができる。

チャキチャキの青梅っ子たち(ストレイト・アウタ・青梅)も低さへと抵抗している。旧青梅街道の西分という地域では、巨大な山車の格納庫が存在している。この山車の格納庫は、ほかの街並みと不釣り合いに大きくピカピカしている。これはほかの11地域でも同様で、青梅市は毎年青梅大祭が開かれ、そこで豪勢な山車を見せびらかし合うらしい。

青梅大祭山車と居囃子紹介

らしいというのは(引っ越してからぜひ生で見てみたかったのだが)コロナ禍でここ三年ほど開かれていないために、この立派な倉庫の奥で鎮座している(おそらくひどく手間とカネが使われたピカピカした)山車を、現物ではついぞ見たことがないのだ。勝手な心配だが、こうした共同体の催しは、単にあるというだけでは求心性を担保できず、献身はまさに献身させることで、その求心性を可能にする。したがって、コロナ(が明けるのかどうなのかてんでわからない地点にあるが)以降に再開されたときに、元の通りに祭りができるかどうかは、不透明だろう。それでもなお、数年開かれていないにしては、倉庫はひなびた感じもなく、常に手が入れられているのを感じる。あのひどく不釣り合いに巨大な山車とその倉庫が示す通り、世界が終わっても彼らは、この祭りを続けようとするだろう。黙示録のラッパのように祭囃子が鳴り響くさなか、何もかもが終わるさまをいつか見てみたい。

この建物の対面には、もともと牛乳販売所だったひどく古ぼけた建物がみられる。元牛乳屋の写真は、まだ人が住んでいる気配がしたために撮っていない。そこには雪印牛乳青梅出張販売所と掲げられているが、青梅の青が脱落し、全体としてほとんど読解が困難なほど色褪せている。牛乳屋は、コンビニやスーパーの台頭で追われたが、それ以前は非常に稼ぎがよかったと聞いたことがある。というのも、一度も会ったことのない父方の祖母の弟は、小さいころに親戚に貰われていって、旧制高校から京都帝国大学、証券会社勤務を経て、貰われ先の牛乳屋の家業を継いだらしい。家業の牛乳屋は高度成長期には左うちわだったようで、彼の息子二人を東京の私立大学に行かせている。だが、大店法の改正やコンビニの出店などで顧客が減り、最終的には家業を畳むことになった。晩年には認知症が進み、徘徊と寸借詐欺を繰り返していたみたいだ。生きているのか死んでいるのかもわからない状態だったが、祖母の葬式にも通夜にも連絡をよこさなかったために、喪主だった父が怒り、その親戚と丸ごと絶縁と相成った。このエピソードも含めて、おそらくよくある日本の近代の一断面を、破れた元牛乳屋を見て想起した。それはおそらく、青梅が今に至るまでにたどった歴史なのだろう。

もうすこし行くと、秋川街道と交差した三叉路に行きあたる。このあたりからネコとレトロの人為的な押し付けが目に余るようになる。青梅は一応歴史的な経緯もあり、ネコの絵を推しているようなのだが、別に土地を歩いていて、そこまで猫を見かけることもない。このあたりから、映画のポスターをネコに改変した看板がたくさん目につくが、これはおそらく、もともとの映画看板を作っていた本式の職人が亡くなり、その空白を埋めるために作られたのだろう。青梅市にある東京都内唯一の木造映画館という触れ周りの、最近オープンしたシネマネコも、名前にネコを付けている。なぜ、ここまでネコを押しているのかについて、地域住民のアイデンティティと観光―開発という資本主義のロジックとの複雑な力学があるような気がするが、しょせんまだ余所者の自分にはよくわからない。いまやいきつけの床屋に初めて行ったときに、このシネマネコの従業員か何かと勘違いされて、あなた先週あいさつに来ていたでしょと言われたのはびっくりした。俺によく似た人が映画館にいるらしいが、ドッペルゲンガーに会うと死んでしまうのが怖いから、いまだ映画館には行っていない。散歩のついでの遠巻きに眺めたことならある。

もうすこし歩みを進めると、レトロ押しの総本山たるレトロ博物館があり、にぎわっているともにぎわっていないとも言えないくらいの人の出入りだが、この博物館は、昭和30年代ブームやレトロツーリズムブームのかなり初期である2000年代初頭に建てられたようだ。ここもいまだ行っていない。それは人為的なレトロにいささか変な気持ちになるからである。青梅のレトロは、諧謔を感じさせず、商魂たくましさもあまり感じない。不感症的な諦念と、突然の来客が訪問した時の慌てたような身支度を、この人為的なレトロ表象に感じる。この「レトロ」を打破しなければ、青梅を歩く意味はない。

通りを面した向かいには、祭りの法被などを専門で売っている店がある。この店がいまだつぶれておらず営業し続けていることが、祭りに賭ける異様な情念を感じさせる。この店には、おそらくオリエンタリズムをぎらつかせた観光客か、ちゃきちゃきの青梅っ子しか入れないだろう。自分たちのような半端な余所者は、店の居住まいに気圧されてしまうから、まだ入れていない。世界の終わりのときにだって、祭囃子を吹き、山車を引くというだけの覚悟がないのだ。

もうちょっとだけまっすぐ行くと、死んだ魚民が見えてくる。いや店舗としては生きているのだが、一階と地下にのみ魚民が残り、他のテナントのほぼすべてが死んでいる。それなりに大きい商業ビルがゆえに、魚民の明かりが残っていることが、より一層空虚さを感じさせる。この魚民をみた時にこんな風景を幻視した。残飯をあさって、尾頭付きの魚を見つけるが、内臓も肉のほとんども腐り果て、異臭を放っている。その腐敗した部分を丁寧に腑分けして、ほんの少しだけ残った肉を、肩を寄せあい分け合って食べる痩せた亡者を。

魚民のところを右に曲がれば、もうそこには青梅駅のロータリーがある。この駅舎周りの情景は、すくなくとも80年代からほとんど変わっていない。青梅市図書館が公開している以下の動画を見ればわかる通りだ。なんなら40年前の方が、いまより現在に近く見える。レトロとは、過去を演出しているのではなく、過去に廃棄されていることの「文学的」修飾なのではないかと思う。

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もう大尾に近づいてきた。実のところ、もう少しだけ青梅駅周辺について語ることもできる。たとえば、駅横の新しくなった道の駅が、映えるようなレトロを押しつけがましく主張していて、そのフォニィに呆れるほかないとか、夜に通りかかったときに、空虚な駅前の古ぼけたベンチで、3-40代の夫婦が、寒そうに身を寄せながら、発泡酒のロング缶を飲んでいた光景の美しさとか、そういったものだ。だが、そうしたこまごまとしたことは、もう通り過ぎてしまった。

一つだけ、本当に見てもらいたいものがある。この散歩にほとんど目的めいたものはないが、強いて言うならば、青梅の過去への悼みと現在の痛みを未来に投棄することによる糊塗を足先から感じたいのだ、とすでに述べた。実のところ、この感情は、エトランジェの思い付きではなくて、青梅の土地から滲み出た感情でもあると俺は思っている。それは一つの、青梅の土着民により起草されて展示された文章に凝縮されている。この文章をよく読むために、この文章に注釈を入れるために、俺はいつも歩いているといっても過言ではない。

平成28年に開かれたらしい、「仲通りレトロギャラリー」という写真展で草されたものらしい。青梅駅からすこし永山公園に歩いた先の写真屋に、そのギャラリーで展示されたであろう写真とともに、それはある。それはこのように始まる。

「いま、青梅の町は日に日に枯れていくように思います」

もはや取り壊されつつあるが、駅前の長崎屋という百貨店には、おもちゃ屋レコード屋など、さまざまな娯楽や文化があり、屋上のレストランでは一日200食ものお子様ランチが売れていたことをこの文章を通じて知った。過去を想起して溢れてくる幸福な家族連れ、なかでも玩具を買い与えられ、屋上でお子様ランチを頬張る子供は、その土地に未来があったことの換喩だ。この文章の書き手は、その日々がもはや戻らないことをわかっている。書き手は、自らの過去への郷愁を振り払おうとも振り払えないまま、過去の暖かな未来を幻視している。観光客の目から見た「レトロ」では捉えきれない、破れゆく町の声がここにある。いつまでも残されているのかわからないが、この文章を読むためだけに、青梅駅まで観光に来ても良いと思う。

これからも、おそらく青梅を歩くことになる。そして今のように何かを書くかもしれない。その時の自分が、いまだ根無し草なのか、根を張った住民なのか、観光客なのかはわからない。それでも、母指球から地面からの反発を感じながら、上下左右に揺れるこの視点とともに、青梅を歩いていこう。