たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

メルヘンハウスに育てられて

多量の本を所構わず餓鬼のように摂取してしまうぼくの業は、メルヘンハウスのブッククラブにより作られたと言っても過言では無い。責任を取っていただきたい。しかし、悲しいことにメルヘンハウスは閉店してしまった。

 

メルヘンハウスというのは、子どもの本の専門書店である。名古屋にあり、1973年から営業を続けてきた。その歴史に数年前に幕が下された。再開を模索しているようだが、どうなるのだろうか。

 

実店舗には、一度か二度ほどしか足を運んだことはない。しかしながら、今まで日本語で書かれた絵本と子ども向けの本がすべて存在するのではないかと錯覚するあの空間がなくなるというのは、損失だろう。悲しい。

 

メルヘンハウスとの繋がりを形成したブッククラブも同時になくなるのだと思うとさらに悲しい。母がぼくのために、ブッククラブという選書配本サービスを取っていたことが、本を求める餓鬼道に落とすいくつかの要因の一つになっているのは間違いない。あれは絵本の読み聞かせという受動的な経験から、読書という能動的な経験に切り替える際の補助輪となったように思う。定期的に送られてくる選書は、肉親が選んで読み聞かすような与えられるものという読書経験と、自らでグーテンベルグの銀河系に飛び込みトレジャーハンティングをするような能動的な読書経験の中間をなしていた。少なくとも自分にとっては。

だからだろうか。小さい頃は餌を待つ雛鳥のように、配本されたものを着くや否や貪り読んでいたように思うが、次第に、毎月送られてくる本を選り好みするようになっていた。

 

いつまで母が続けたかの記憶はないが、ヤングアダルトと呼ばれるカテゴリーの物が届くようになって顕著に読まなくなっていった。ヤングアダルトというカテゴリーに含まれる本がどこか自分と合わない。そして、押し付けられているように感じるようになっていった。江戸川乱歩山田風太郎といった「猥雑な」「大人の」小説を読み始めていた思春期のクソガキは、ヤングアダルトという言葉に込められた、「思春期のあなたたちも大人として扱ってあげますよ。でも本当の大人じゃないんだから、健全に限ります」というダブルスタンダードパターナリズムを鋭敏に感じ取っていたのだろう。背伸びしたがりなところとか、パターナリズムへの反抗的な気持ちは、今の自分をどこか拘束しているように思う。とはいえ、もはやそうしたパターナリズムを行使するような年齢にもなっているのだが。

 

この押し付けられていると感じるというのは、なにかしら外的なものが内的なものへ影響を与えようとしてきた時に感じる抵抗を核としている。またこの抵抗の核が可能になるのは、内的なものが形成されたことによるだろう。

要するにだ、徐々に、文学青年とは言い難い、陰気な内面を持つ生物が形成されていったのだ。読んできた本の束が、次第に自分自身の自我そのものに結び付けられていく中で、与えられた本を吟味していくようになったのだろう。その趣味嗜好は、おそらくアイデンティティと呼ばれる何か得体の知れないものと緊密に結びついていることも想像に難くない。

 

陰惨な自意識と成り果てたあとに、「書斎のポトフ」という開高健らの鼎談集を読んで、日本の児童書の悪口を言いまくる作家と批評家に喝采をあげたのも、こうした内面の核が悪さをしたのに違いない。むしろ、そういう天邪鬼を形成するのに、柔らかな良い児童文学やヤングアダルトの選書は影響を与えたんだろう。

 

消えゆく媒介者として、選ばれ運ばれてきた児童書は、自分にとってなにがしかに重要な役目を果たしてくれたのだけは間違いない。