たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

本当に困っている人は良いんだけど……

社会的なものが、ー多くはヘテロ健常者男性に限られようともーさまざまな仮象を経由して、見知らぬ同胞との連帯を可能にしていたのであれば、それを鏖殺してきたこの国で、他者との連帯は、相互監視による危害の抑止にまでおしとどめられよう。相互監視による行動の調整は、すべきではない行動をした逸脱者への社会的制裁とセットとなっていて、しかるに、サンクションを恐れて外面は秩序だって行動する人の群れができるわけだが、そこに秩序に服せない人への配慮はなく、魔女狩りは再来することとなる。秩序に服せないことは、やむにやまれないだけでなく、そもそも戦時下というのは端的に比喩であって、われわれは国家の要請に従う義務はなく、本当にオーバーシュートを押し留めたいのであれば私権の制限を所定の手続きに従いおこなわなければならない。にもかかわらず、空洞化した社会の名のもとにこのような「要請」をおこなうことの醜悪な点は、本当に必要な人とそうでない人という緩い境界を、どのような基準かもわからぬまま本質化し、そうでない人への弾圧を社会の名のもとで正統化することである。こういったときに出現する、一切の責任追及を免じられた本当に困っている人なる言葉は、ズルをしている人を指弾するために使われると相場が決まっているわけで、彼ら、あるいは我々は、感染者として徴つけられて魔女と化し、不要不急にもかかわらず享楽を貪ったとして、非国民として、万死に値すると罵られよう。俺はコロナだとのたまい、ウイルスを撒き散らした男性の顛末をわざわざニュースで取り上げ、その死を見るに自業自得や因果応報という言葉と、水戸黄門じみたテンプレを感じたとしても誤りではない。勧善懲悪の劇を素朴に楽しむときと、感染者を隠れた享楽ゆえの自業自得か、純然たる被害者かと分けて、後者を守るという名目で前者を指弾するときは、同じ脳味噌の部分が刺激されているに相違ない。とはいえ、メディアを問わず行われる祝祭じみた指弾の饗宴は、ポジティブな感情なく行動を規制させられる人々のストレスに対応した娯楽になっているのもまた確かで、知識人がこれを蔑もうが問題は変わらない。だとすれば逃げ道はいずこ?

 

何かにつけて軍靴の音が聞こえると警鐘を鳴らすサヨクという戯画は、いまや誤りではなく、今やなし崩し的に戦時下になっている。比喩は実体化し、人々は総力戦下での生をいつの間にか強いられている。オリンピックが開かれないことがまさに戦時下と重なり合う中で、欲しがりません勝つまではの標語が、がらんどうになったスーパーを前に虚しく響き、バーチャル化した闇市で商人たちは放縦に動き回る。時は戦時下なれど、いずれ戦争は終わる。そして、われわれは戦後を迎えなければならない。国際秩序の変化も含めてまっさらに変わってしまったという感嘆を与えた戦後を。この世界がどう変化するかは未だわからないとはいえ、焼け跡からはじまった戦後思想の読み直しが急務なように思われて、とりあえず書棚の藤田省三に手を伸ばすことからはじめた。この戦後を今から考えるために。つまるところ出口を見出すために。