たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

「ぼく」という一人称について

世界に特に意味のない文章を公開しようと考えたときに、即書いて公開できるというのは、マクルーハンの言う(今日読んだ)電子メディアの時代の良さだろう。その結果、世界がムラと化しても構わない。そんな気がする。

 

書きたいのは伊藤計劃のことだ。いつだって、ぼくは彼のことを考えている。嘘だ。ほんのちょっぴりおセンチになったときだけ。

 

寒くなると肩が縮こまり、自然と顔は下を向き、スマホもいじりたくなくなって、外界の刺激と触れ合うことなく、内省をはじめてしまう。内省も自我の底まで行き当れば、反射した行き場のないエネルギーは外に向かい、さみしさに支配されることとなる。そんな時に、一人称は「ぼく」になり、ナイーブなところが全面化してくる。

 

「ぼく」という一人称を、引き受けて使いこなす人間を、ぼくは愛する。そのうちの一人が伊藤計劃であり、もう1人が歴史社会学者の佐藤健二(cf.「読書空間の近代」)だ。

佐藤健二は論文で言及する日が来るだろうから(ぼくは論文を書けない研究者もどきをしているんだ)、伊藤計劃のことを話したい。別に何の自慢にもならないが、彼のブログも出版されたものも、おそらくほとんど読んだと思う。残るは、わずかな同人誌や、草稿のようなものだろう。彼はブログで、映画評を書いていた。それは早川書房の「running pictures」という黒い文庫本にまとめられている。伊藤のおかげで、ぼくは「人狼jinーroh」を観たし、ダークナイトもめちゃくちゃ真剣に観た。ダークナイトなんてここではないところに、結構自分のなかでまじめに考えたレビューなんて書いてしまったくらいだ。

彼の挙げる映画は、いわゆるアーティスティックなものではない。また、オタク的なものではない。なんというか、ボンクラなんだ。それは一貫した「ぼく」という弱弱しい、それでいてあるところでは、決定的に男性の優位を利用した、要するに卑怯な一人称を使って書いてることから、明らかだろう。ボンクラっていうのは、要するにダメな奴なんだ。いつも貧乏くじを引いているようで、間が悪くて、みんながやっているちょっとだけよくないことをぼくもやれば、すぐにばれて間の悪い思いをする。そんなことばっかりな奴がいる。そいつがボンクラなんだ。だからボンクラが好きなんだ。それはぼくだから。外から見れば、運が悪かったように見えるけど、内側から見ればそれは違う。どこまでもダラダラ考えて、覚悟決めたふりしてやるんだけど、それでもなお失敗して凹んで。そんなことを生きているうちで繰り返してんだ。ぼくらは。

虐殺器官を思い起こせ。特殊部隊の身体強化された部隊員と「ぼく」っていう一人称なんて、およそ弁証法的に組み合わせることが困難だ。でも成り立つ。家の話と世界の陰謀、そしてちょっとしたロマンス、そういうものがきれいに結びついていく。たまの休日に、大きなピザをソファでダラダラ楽しむことと、世界で虐殺に覆われていることが同時におきる。その二つを、引き受けも、引き受けないもしない泣きそうな笑顔こそがぼくにふさわしい。ピザをコーラで流し込みながら、どこか達観して、そしてどこまでも傷ついたふりをして、気づいていたんだ。彼はそうなることを覚悟していた。でも本当にそうなるとは思っていたのだろうか。虐殺器官を、ぼくの国でばらまくことを。

 

伊藤の文章を読むと、「ぼく」を引き受けていることがわかる。それは、弱弱しい。それは女々しい(この言い方それ自体が、差別構造を温存し再生産している)。そして、加害者であり、被害者にはなれないが、傷ついてしまいがちな立場に置かれてしまっていることを、抱きしめながら、突き放して見ている。それでいてなお、面白がっている。どこか泣きそうになりながら、決然としている。冬の季節にも似た、その精神をぼくは愛する。