たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

嫌いの話

嫌いを分解しないようにしている。

 

嫌いなモノはひどく多い性質だと自負している。おそらく、好きなものよりも嫌いなものの方が多いだろう。圧倒的に。しかし、だからこそ気をつけていることがある。それは、嫌いを分解しないことである。つまり、嫌いを分節化しないということである。どういうことか説明しよう。

 

分節化について。例えば、あなたがピーマンを嫌いだとしよう。ピーマンを構成する要素は、緑、青臭い、苦いなどなどである。この、構成する要素を取り出すことを分解、ないしは分節化と言おう。この分節化をおこなうことで、あなたの好悪や感覚について、色々わかることがある。

 

好きなものを深掘りする時、私たちはしばしばこのようなアプローチを取ることが多いのではないか。例えば、なんかわからんけどめっちゃ好きな曲。こんな感じの好きな曲を、たくさん聴きたいと思うと、その曲を構成する、ミュージシャン、ジャンル、レコード会社、作曲家、編曲家といったものを調べて探索することがあるかもしれない。そして、例えば自分は90年代のg-funkのなかで、比較的ピロピロした曲調のものが好きなのだと気づくかもしれない。分節化のあと、発見された構成要素を含んだいくつかの集合にアクセスして、新たな「好み」を発見していく。そうやって人は沼にはまっていく。

 

好きならば良いが、これを「嫌い」でやってしまうと、嫌いなものが明確になり、増殖する可能性がある。気にくわない人の特徴をいくつも取り出し(例えば、話が長い)、それらの要素を持つ人を探していき、どんどん嫌いな人が増殖していく。こうなると、円滑な人間関係は難しいだろう。ただ世の中には、人を嫌いになれないという、それはそれで辛い業を背負った人もいるので、そういった人には有効かもしれない。つまり、なんか嫌なことや違和感を覚えたら、それを掘り下げて、嫌な気持ちになる経験を明確にしておくこと。そして、それを避けるように生きていくことが必要な人もいるように思う。

ただ、自分にとっては嫌なものが増えすぎると、好きなものが消え去ってしまうので、この作用を抑えている。

 

しかしまあ、身もふたもないが、両者のバランスを取っておくのが一番いいかもしれない。というよりも、いちいち感覚を掘り下げなくても、生きていけることが多いのかもしれない。

ちなみに、こういう、結論を投げるやり方は、個人的にとても嫌いである。