たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

三島邦弘2011「計画と無計画のあいだ」河出書房新社

「厳しい出版不況」を、ミシマ社(車)が野生の感覚でサバイブしていく様子が、底抜けに明るい調子で語られる。

 
ミシマ社は、事業計画もなく、社長は決算もエクセルの使い方もわからず、社員は領収書の書き方を知らず、年間刊行点数も決まっておらず、運転資金がつきかけた時に人を新しく雇い……などなど、異常なエピソードがこれでもかと出てくる。要するに「ちゃんとした会社」ではない。そもそも、出版不況が叫ばれている中で、さらに出版業界はとりわけ新規参入がしにくい業界構造なのに、2006年ミシマ社を作ってしまったこと自体異常である。そしてそんな異常な法人が現在(2016年)まで10年も続いているというのを奇跡と言わずしてなんというのか。「奇跡は毎日起こるもの。それを信じる人たちのところには、必ず」
 
これは奇跡の記録である。
 
ミシマ社の代表である三島邦弘は無計画な男だ。四年勤めた最初の会社を、ボーナスの支払い月の一ヶ月前に、旅に出たいからという理由で辞める。東欧をまわった後入った会社で艱難辛苦の日々を送るも、「出版社をつくろう!」という天啓にあって突然起業。完全にやばい人である。
 
その後発足したミシマ社は、最初の本を作った時に運転資金がショートする寸前まで追い詰められたり、にもかかわらず突然社員を雇ったり、雇った社員がハチャメチャだったりというあまりにも「無計画」な日々を楽しみ?ながら、資本主義社会をサバイブしている。読み進めると、口を思わず開けてしまうような奇跡の連続だ。一歩間違えたら簡単に踏み抜いてしまうような薄氷の上を、哄笑しながら駆け抜けている三島氏が脳裏に浮かぶ。(会ったことがないから想像ですが)。厳しい社会に生きる私たちは、こんなのあるわけないよと怒り出すだろう。
 
奇跡の秘訣を三島は「野生の感覚」と「原点回帰」の二つの言葉で説明する。「野生の感覚」は、マーケティングやデータといった言葉と対立するように語られる。およそ身体に基づいた勘という言葉と同義だろう。売れるか売れないか、面白いか面白くないかもっと言えば人生における正否を判断する身体的な感覚。三島はそれを何よりも大切にする。そのために、吹きざらしの木造一軒家を社屋にし、パソコン禁止時間を作り、会社の合宿では決して事前に宿を予約しないなどさまざまな「非常識な」試みをおこなう。
「原点回帰」は、出版業界の構造的な弱点を克服するためのアイディアである。それはシンプルだ。取次ぎを通さず書店と直接取引する。ひたすら熱量を込めた本を作る。このシンプルな二つの改善策を業界ができない理由として、ブンダン主義、合理性、データ主義、などのさまざまな旧弊的なシステムのエラーとそれを取り巻く幻想を指摘する。
この二つの言葉は、つまり強固な資本の論理の中で贈与の力動を駆動させるということだ。三島は映画「シザーハンズ」と中沢新一を引きながら、本に込める無償の愛(=贈与)を強調する。
 
キムという一人の女性へ無償の愛を注ぐ。そこに打算はない。その人が喜ぶだろうということだけを考えておこなう、徹頭徹尾、献身的な行為だ。
もちろん、僕たちの生きる資本主義という社会で、同じことをおこなうのはむずかしい。だが、それに近いことはできるはずだ。
つまり、ぼく自身の仕事でいえば、目の前の本にあらんかぎりの愛情を注ぐこと。きっと他業種においても、その本質は変わらないだろうと思う。
かつてマックスウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で増大する合理性と資本主義をそこから抜け出ることのかなわぬ鉄の檻だと悲観的に語った。しかし、贈与や呪術は死なず残り続ける。そして三島は、資本主義の中で、野生の感覚を使い、贈与をテコに、出版業界を救おうとしている。
計画と無計画。官僚的合理性と野生の感覚。旧弊的なシステムと原点回帰。これらの二項は対立的に見える。しかし実際は相補的であり複雑に絡み合っている。三島は前者を増殖させることで、出版業界に生成変化を起こそうとしている。ただカオスを増大させるわけではない。カオスとコスモス。
二つの線を引く。前者は
決まり事、ルール、常識、規則、秩序、社会性あるいは防御(守り)、ブンダン主義
絶対に守らなければならないライン。
無計画、柔軟さ、突発性、衝動、無秩序、非効率、野生、攻撃、原点回帰
後者が自由にやれるライン。このラインを超えると危険。
 この前者と後者の間を増やすこと。これが自由であるということだと三島は言う。ただ無秩序でもいけない。計画がなければ無計画は糸の切れた凧だ。コスモスがあることで、カオスが機能する。またただシステムに従っていてもいけない。出版システムは外から見てもわかるくらいに病んでいるからだ。
三島は出版のシステムを根本から破壊し作り変える革命家ではない。それはあとがきとゲバラを引いた章で二度語られる。出版業界の構図の中で、「わが身を置く場所を少しでも良くしていく」ことを目指す。そのためにシステムから逆らいながらも良い本を出し続け、商業ベースで結果を出し続ける。それを原資にひたすら継続して熱量のこもった本を出し続ける。これは贈与と資本主義の論理のあいだを非常に危ういバランスで綱渡りし続けているということだ。ミシマ社という出版社が現在も続いている。奇跡は起こり続けている。奇跡を起こし続けることによって、出版業界を少しも変える。ミシマ社の野望は果たされているのか。
 
少なくとも現在出版業界の構造は変わったようには思えない。ただ2006年当初から比べて様々な動きが出ているのは確かだ。その動きにはミシマ社という存在が強い影響を与えているだろう。未来を正確に見通すことなど誰にもできないが、ミシマ社と出版業界の生成変化のゆくえを、一読者として、あるいはいつかは書き手として、注視していきたい。