たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

母校と呼びたくない高校での日々

本好きで空想がちな少年期を生きて、そのまま思春期、青年期へと移り変わっていく中で、お前は地に足が付いていないとよく父親に叱られた。それは愛ゆえだったのだろう。今も地に足はついていないが、地に足をつけることの重要性を理解できるようにはなった。

高校時代、軍隊と呼ばれる自称進学校で地に足が付いていない自分は強烈な違和感を覚えてしまう。
国公立至上主義と名古屋大を頂点とした独自の価値序列、課される大量の課題とスパルタ式の厳しい指導。
順応するか、反抗するか。多くのものは順応した。少数のものは反抗した。自分はどうしても順応できなかった。しかし反学校文化に染まる勇気もなかった。友達もしばらくできなかった。辛かった。その辛さを、その高校のOBであり、父親の友人であり、行きつけの歯科医の先生だったKさんに話した。高校一年の冬のことである。
Kさんに言われたことを今でも覚えている。
俺もあの高校は今も嫌いだ。でも反抗するなら成績をよくしないと格好がつかない。俺は死ぬほど嫌いだったが、成績を上げて教師たちが何も言えないようにしてやった。痛快だったぞ。

圧倒的に成績をよくすることで、高校の押しつける価値序列や進路をすべてねじ伏せよう。強烈な動機が生まれた。成績を良くすることによってあの高校のシステムに反逆する。それにはまず、名古屋大至上主義を抜けなければならない。そのために名古屋大よりも偏差値の高い大学を志望校にし、そこに受かりうると判断されるような成績を取らなければならなかった。志望大学を高校と正反対の自由な気風溢れているとされる京都大学にした。そして受かるためにひたすら情報をガラケーで集めまくった。サーベイした勉強方法をひたすら取り入れる。日ごとにやるべきことを具体化し必ず実行した。その冬は毎日朝5時に起きて居間のストーブの前で縮こまって勉強した。冬を終えて英語の偏差値が20くらい上がった。他の教科も上がっていた。あの時が多分最も意識が高かった。その後、地元志向に中指を立てて一緒に勉強してくれる仲間を探した。何人かをオルグして、志望大学を名古屋大から書き換えさせた。
なぜあんなに詰め込んで、情熱的に受験勉強をすることができたのか。それは目的意識だろう。今はそんな目的意識を良くも悪くもなかなか持てない。
結果として、第一志望は落ちてしまった。森見登美彦小説のようなうだうだした青春を京都で送れなかったのは悲しいことだ。かわりに三鷹の森で得難いものをたくさん得た。

あの頃、今-ここから抜け出たかった。ここで生き、ここで終わるのが嫌だった。今-ここから抜け出す手段は受験しかないと思っていた。地元の友人が嫌いなわけではない。今でも年一は必ず飲んでいる気がする。地元を出たいという強い思いは、夢見がちな少年が、まだ夢の続きを見させてくれと駄々をこねているだけだったように思える。地に足のついていない少年は、ここから出られなければ自分は遠からず自殺してしまうに違いないと謎の確信をして、またそれが熱狂的に受験勉強に駆り立てることになる。要するに少しおかしかったのだ。その反動で大学で少しも勉強しなくなり、留年をしてしまうのは別のお話。
高校での自分はクソガキだった、と思う。ある意味最もたちの悪い反抗をしてきた。やる必要のないと判断したことはやらない。それを徹底した。一見すると美徳のように聞こえるが、要するに宿題課題を完全に無視していた。そして、なまじっか成績が良かったのでそれを黙認させていた。一年の冬まで苦痛だった課題の量も、自分で自分に課していた勉強に比べたら少なくて不十分だった。定期試験も必要がないから勉強しなかった。内職もよくしていた。得意だった国語の時間は基本的に数学の時間だった。当然、よく怒られた。でも何も聞かなかった。今となれば授業の円滑な運営という面で迷惑をかけてしまったなと少し反省している。おそらく一生会うことも、この文章を読むこともないだろうが、形だけは謝っておこう。その節は迷惑をかけて大変申し訳ない。

地元の磁場から逃れたあと、特に寂しいと思うこともなく。人よりほんの少しだけ長い大学生活で非常に多くのものを得た。三鷹の森に佇むあの自由な気風の大学は、自分の母校である。しかし、A県立Y高校は母校ではない。母校と呼びたくはない。
ただ、6年も経ってみれば、ファナティックかつ禁欲的な日々を少し懐かしむ気持ちがあることは否定できない。