たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

明けまして

あけましておめでとうございました。年初めに目標とか去年の振り返りを書こうかと思いつつも、何を書くべきかよくわかりません。だから、去年のことを書こうと思います。

 

去年の思い出は楽しいことも悲しいことも、なんとも言えないことも、誰かと分かち合いたいことも、誰にも言えないこともたくさんありました。

 

去年の大きな事件といえば、祖父母の死です。これで、父方母方ともに祖父母がいなくなってしまいました。母方の祖母はずっと認知症で、家族旅行で何度も行方不明になっていました。最後はぼくの顔もわからなくなっていたと思います。祖父は、祖母の死までは元気でした。一ヶ月後、まるで連れ添うように亡くなりました。

 

ぼくは最後まで祖母との付き合い方がわかりませんでした。祖母は膵臓癌で、余命一ヶ月と宣告されました。癌は骨にも転移していて、非常に脆くなっていたため、転けた際に大腿骨を折りました。余命宣告からおよそ二週間後のことでした。骨折から入院しました。慌てた母と石巻に行きました。母が話しかけると返事はしていて、母のことはわかっているような感じでした。気丈な母も泣いていました。ぼくはお世話になったにもかかわらずよくわからない顔と感情を抱えていた覚えがあります。

 

退院の前日、在宅でリハビリに切り替えることを叔父叔母と母が話し合っていました。どのように看取るか。ぼくは議論に入らずにぼんやりとしていました。

退院日の朝5時のことです。叔父の家の緊迫した空気で起こされました。祖母が大量の血を吐いて心肺停止していたそうです。行くと医者と看護師がベッドを囲み、心臓を圧迫していました。家族が来たことを見てとると、叔父と医師が一言二言かわし、医師と看護師がベッドから離れました。何時何分。正確な時間は思い出せません。その時間に、医学的法的に祖母の死が確定しました。慌ただしく葬式と法事が進み、祖母は煙になりました。祖父は急に伏せるようになりました。祖母の葬式にも法事にも出られませんでした。弟たちとともに寝ている祖父の様子を見て声をかけに行きました。それが最後の会話になりました。一ヶ月後、祖父は死にました。死に目には会えませんでした。

 

祖母の死は、余命宣告と死に目を見たためになんとな折り合いをつけることができたように思います。ですが、祖父の死はあまりにも突然で、一年近く経ちますが、未だに受け止めきれていません。祖父は頑固でマイペースな人でしたから、しばらくは生きるのだろうと勝手に思っていました。亡くなる三ヶ月前まで、石巻から愛知県まで遊びに来ていたのです。

 

去年の1月2月あたりは、いや桜が咲き始める頃までは、このことでバタバタしていました。研究どころではなくて、あるいは研究や人生から逃げる口実にして、忙しなく東京、常滑石巻を行き来していました。あれから実家は変わったのでしょうか。母は変わったように思います。二人の肉親がほとんど同時に亡くなったことは、どういう衝撃を与えたのでしょうか。ぼくには想像さえできません。

 

息子から見て強すぎるほどに強い人ですが、人生の残り時間に思いをいたしているような気もします。連絡を取っていて、老けたなと思う時が増えました。

 

今週実家に帰ります。祖父母のこと、これからのこと、昔のこと、今のこと、死ぬこと、生きること。そんなことについて、酒を飲みながら親と話してみようかと思いました。もういい年になるので。

 

湿っぽい話しかしませんでしたが、今年は良い年になることを祈ります。とりあえず、論文は書きます。