たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

闘病?日記20240607

秋田から帰る新幹線の車中で書いている。じつは、こそこそと閲覧数を見ていて、昨日の日記があまりにも読まれていないことで、モチベーションが低下していたのだけど、そもそもが自分のために書いているにもかかわらず、ひとたびどれだけ読まれているかという量が気になってくると、当初の動機から、いつ何を公開しようか、とか、まったく別の動機が忍び込んでくる。気をつけたい。でも読んでほしい気持ちは、恥ずかしながら、結構ある。


会議について、仕事に関わるのであまり詳細にかけないから、非常に抽象化して、面白かったことを書こうと思う。


あるものごとを決めるために、AとBが、異なった立場で交渉する場面を考えてほしい。

交渉が成立するためにはまず、この相異なった立場のABが、交渉をすることに同意して、席につかなければならない。ついで、この交渉を通じて、決定を生み出すためには、第一に、AもBも、決定のための交渉に参加し続ける=退席しない、ことが必要である。第二に、退席せずに決定が成立した場合、その決定により拘束されることを(たとえ両者の立場からみて著しく受け入れ困難であろうとも)受け入れなければならない。


言い換えれば、なんらかの決定に向けた交渉は、交渉の事前ー過程ー事後において、不断の両者の同意調達が必要である。逆に言えば、なんらかの交渉を背景とした決定が成し遂げられている場合には、遡及的に、対手間の同意が成立しているとみなせる。

問題は、このように、ある特定の形式に沿って決定を産出する(=二者間の合意形成を産出し続ける)仕組みが、なぜ必要とされ、可能になるか、というところにある。ここまでのお話は、コーポラティズムを、独特の形で言い換えたものであり、長原豊の処女作「天皇制国家と農民ーー合意形成の組織論」の骨子を咀嚼したものである(少し怪しいが)。本源的に利害が対立し、最終戦争に向かってエスカレーションせざるを得ないとされた関係性を、階級と呼ぶならば、その階級対立を弥縫する第三者(=独占資本としての国家、あるいは、摂理の国家)による介入は、以上の交渉を成立させるために働くだろう。というよりは、自分の捉え方だが、20世紀以降の国家の枢要な役割は、この階級間の対立をより広範に解釈し、二者間の「問題解決」をセッティングすることにある。そして、実際のところ、この「問題解決」よりもはるかに重要なのは、相互融和が本源的に不可能な友敵ではない、交渉が可能な関係性に(=交渉のテーブルについた時点でつねにすでに同意が両者間で調達済みである)させ続けることなのだ。思えば、近代国家とは、常に第三者として、二者間の関係性に介入することをレーゾンデートルにしていたのではないか。どこで読んだか忘れたが、イギリスのかつての王は、揉め事を権威を持って解決することで、より権威を高めていき、王政を成立させていったという。これは、ボス的なものが、ゴタを消すトラブルシュートから発生しがちなことを示唆する。


ある人が潜生的にもつ、揉め事の解決可能性は、その人の持つ権威(あるいは名誉?)と、論理的に循環的な関係性を取り結んでいる。揉め事の解決可能性とは、上訴の打ち切り可能性である。おそらく、現存するすべての社会で、この意味での権威を持たなかったところはないだろう。権威はむしろ、民主主義的な社会において(そうではない社会よりも)繁茂する。民主主義の原理的なアカウンタビリティの際限のなさ(無限)を、有限な時間における決定に変換するためには、打ち切り点を作って置かなければならない。その打ち切り点が受肉した存在が、その決定算出場面の権威者となる。とはいえ、民主主義社会の良いところは、権威者により打ち切られたあとに、反省に開かれているところにある。事後における無際限な反省可能性により、有限な打ち切り点が挟まれることで、つまり、無限で有限を挟み込むことで、永久革命としての民主主義が可能になる。