たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

闘病?日記20240616

日本にいるミャンマーの方々のイベントに、職場で誘われたので、同居する友人と行ってきた。その後の、友人の案内での池袋散策も面白かった。池袋的、あまりにも池袋的な。〈アジア〉を感じる。


アルコールについて、たまたま、まわってきた下の記事を読んだ。

https://addiction.report/YumikoAoyama/daradaratalk-1


自分も人並に、あるいはそれよりも少し多いくらいか、酒による失敗をしているが、お酒のことで、いの一番に思い出すエピソードがある。


コロナが猖獗を極める中で、自分は、最も感染率が高い場所の一つでバイトしていた。博士課程のときだ。それは、非正規の仕事だったし、研究活動とは全く関係のない仕事だった。正直言って、早く博論を書いて、そこから逃げ出すことだけを考えていた。博論をとにかくまとめようと、うまく行かなかったフィールドワークやインタビューを用いた研究プランを打ち切り、資料読解と博論の骨子を組み立て始めて、図書館にこもって完成させる見通しが立ったときだった。今でも忘れていないが、一度、図書館が閉鎖した。そのときは、先行きが完全に不透明だったし、研究もそれなりに軌道に乗り始めた(と自分は思い込んでいた)ときだったから、衝撃を受けた。このままだと、感染して、何も残せないまま無意味に死ぬんだと、そう思って、何一つやる気の出ないままに、自暴自棄になっていた。バイトがない日は、あるいは、その感染確率が非常に高い「危険な」バイトの夜勤が終わったあと、コンビニで酒を買い込んで、近くの公園でぼーっと酒を飲んでいた。もうどうにでもなれ、という気持ちだった。学校が休校になって閉鎖されていた時期だったと思う。普段なら学校のある時間に、子どもたちがマスクをつけながら、公園で遊んでいた。そんな賑やかな公園の日陰のベンチに座るのは、同じように行きどころのなさそうな、主に中高年の男性たちだった。その難民たちと、そこはかとない連帯感を感じつつ、それでいてソーシャルディスタンスを大きめに取りながら、俺は一人静かに、エネルギッシュな子どもたちを肴にして、たいして美味しくもない酒をあおっていた。

いつ頃かの正確な記憶がないのだけれど、あまりに先の見えない状況に、負の感情が表面張力を超えて溢れてしまい、自暴自棄になった俺は、大学院の師匠に、もう限界です、諦めます、というような(この文面も正確かどうかはわからないし、なにで送ったかもわからない)文章を送って、何もかも、やめてしまおうとしていた。ただならぬ気配を察知した、普段は連絡を返すのが非常に遅い師匠から(このあたりは師匠譲りである)ほとんど即レスに近い返答で、とりあえず話しましょうと言われ、Zoomで会話した。師匠は、なぜか卓上焼き肉機で肉を焼きながら俺の話を聞いており、煙がモクモクと立ち昇っていて、途中で火災報知器が鳴り始めた。そこで話した内容も、大事なことを言われた気がするんだが、実はあまり覚えていなくて、その光景に爆笑して、すっかり此岸に引き戻された俺は、とりあえずもう少し頑張ろうと思った。ほかにも色々あるのだけれど、俺は師匠にずっと救われている。なお、アカデミックキャリアを一度諦めて、いまの特殊な職場で働いていることについては、一切自分の口からは話していない。怒られることはないと思うけど、研究をサボっていることについては、お小言と煽りを受けるかもしれない。プロミッシングと言われたが、その期待を果たすというプロミスをまったく実現できていないからだ。約束を果たしたいなあと思う。