たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

筋トレ日記20240624

とりあえず禁酒も食事制限も続けるけれども、目的を変えた。俺は健康であらねばならない。ねばならないったらならない。というわけで、筋トレをしたのだが、膝をつけた腕立てでさえ、10回も満足にできなかった。ここまで弱いとは、衝撃だ。


筋トレをする理由の一つは、前にも書いたが、禁酒を継続する理由を作るためだ。もう一つは、消費カロリーを増加させるためだ。消費カロリーの増加には、2つの側面がある。一つは筋トレ(というか、たぶん心拍数が一定以上の運動)の効能として、やったあと、24-72時間、代謝が上がり、脂肪が燃えやすくなる(アフターバーン効果)。もう一つは、よく知られているように、基礎代謝の向上である。以上のことをよくよく考えると、筋トレは、体重を落としていくためには、大変効率がいい。


ダイエットをしていて、一つの試論的なことを考えていた。それは、予期される線形性と非線形性のズレが、過剰性に拍車をかけるのではないかという仮説だ。もう少し分かりやすくダイエットを例に話そう。基本的に、摂取カロリー≫消費カロリーであれば太るし、消費カロリー≫摂取カロリーであれば痩せる、ということは広く知られる。また、脂肪一キログラムを落とすためには、7200キロカロリーをトータルで落とせばよいとよく言われる。おそらくこれも正しいだろう。しかしながら、体重はそのように落ちるわけではない。すなわち、体重の変化は、ものすごく単純な式の形で変化を観察できない。理由は、身体が複雑系だからだろう。

毎日決まった時間に測れば分かるが、明らかに不規則なノイズ的な変動がある。また一定の期間、体重を意識して落とせばわかるが、停滞期は必ずやってくる。この、予期された結果と、出てくる結果のズレが、諦め、あるいは過剰なのめり込みを生む。はっきり言えば諦めのほうがマシである。過剰なのめり込みとは、ダイエットを例に説明すれば、日々の変動や停滞期を、完全な自己のコントロール下に置こうと、極端なカロリー制限(もしくは絶食)したり、食べることに罪悪感を感じて嘔吐したりなどなどエトセトラ。

必要なのは、コントロールしているという感覚なのだろうけど、その感覚のためには、予期を修正して、おおまかな近似式を得る必要がある。んでもって、さらに厄介なのは、人間のバイオロジカル/ソシオロジカルな多様性であって、この式の入力も出力も無際限に複雑だ。この式(消費カロリーと摂取カロリー)を、適宜に修正して、いくらかのやり方で変形させたうえで、予期を修正していくことで、おそらく、過剰性を宥められるし、リバウンドをしなくて済むようになる。正確に言えばリバウンドしても、立ち直れるようになる。

もう一つ、習慣形成の問題があるが、それも今言った予期の構築プロセスと関わるだろうが、まだ十分には下調べと思考が及んでいないので置いておこう。正確な予期ができれば、うまくいっているという内的報酬がタイミングよくフィード(バック)されるので、うまいこといくような気がするが、それが神経科学の議論でサポートされるのかはよくわからん。いいたいのは、ダイエットは複雑怪奇だけども、俺はここを堂々と退席するわけにはいかないということ。

ダラダラと書いたが、このことはどこかにスマートにコンパクトに記述されているだろう。だけど、自分の言葉で刻んでおくことも、大事だと思っている。