たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

闘病?日記20240609

土曜は書くことがなかった。これまで読んだ本で、印象に残ったフレーズの引用と感想でもかこうかなと思う。以下は基本的にオダジマンの「上を向いてアルコール」からの引用。


「ものの考え方だったり行動パターンだったりが二値的、つまりオール・オア・ナッシングの「白か黒か」に振れがちな人間に酒を渡すと、穏やかな飲み方というのか、具体的に言えば少しずつ飲んで適当なとこで切り上げる当たり前の飲み方ができないということは間違いなくあると思います」(小田嶋隆「上を向いてアルコールーー「元アル中」コラムニストの告白」、p.93)


飲み会に行くと、つい、終電逃すくらいまで飲んじゃうし、おかしくなってしまう。ほどほどで帰るということがほとんどできない。一旦飲み始めると、あるものを全て飲み切ろうとしてしまう。飲み放題なんて最悪で、美味しさとかなんて何も考えずに、妙なもったいない精神を発揮して、テーブルにあるものを片っ端から胃と肝臓に押し込もうとする。友人からアルコール便器という最悪のあだ名で呼ばれていたのも、宜なるかな


「私は酔っ払いです」というポジションの楽さというのは、周囲から「あのヒトは酒入っちゃうとアレなヒトだから」という扱いになっていることに心地よさです。治外法権ですよ。外交官特権みたいな。(前掲書、135)


タバコは、人間関係をステージアクション化する魔法のツールとしては、たいして役に立たない。でも、酒にはそれができます。なんというのか、アルコールは、本来ならたいして面白くもない人間関係を演劇化するわけです(略)じっさい酒をやめて途方に暮れるのは、「オレ、クラス会に行ってどうするんだろう」とか、そういう自問自答をするときです。これはいまだにそうですね。行っても身の置き場というのか、適切な振る舞い方がやからない」(前掲書、136−8)


酒は楽だ。めちゃくちゃなことを言っても、なかったことにできるし、丁寧で精妙なコミュニケーションをしなくてもいい。その点で、いまの状況はかなりきつい。まあ、いるだけでお得理論を考えついてからは、ボーナスタイムと念じて、参加できそうな会話には参加する、というだけにしてるから、楽になったんだが。


ところで、小田嶋が言うほど、タバコは意味がないかというと、そうではない。タバコはその場から逃れられるという、別様の機能があるように思える。舞台の比喩で言うならば、演劇中に舞台裏にふけることができるという、これはこれで得難い効能があると思う。演劇に耐えられなくなったら、舞台裏に逃げ込めることは、得難い効能だろう。


減量で厄介なのは、食べるのを我慢すると必ず痩せるわけなんだけど、酒と一緒で、何かを我慢している人生って、本当の人生じゃないということです。少なくとも主観的には、減量中の人生はニセモノの人生です。(略)難しいのは、痩せている間にずっと我慢してやっていた食べ方を、痩せた以後もごく自然に続けていけるような人生観を発明して、その人生観を自分の中に定着させることです。「我慢している」という設定だと、一生我慢することになります。これは、ありえない。(前掲書、142-3)


根本的に、生活習慣をドラスティックに変更するということは、一つの人生観の発明ないしは回心にほかならない。面白いのが、自分が初めてきちんと書いた、まとまった分量の文章がこの回心についてのものだった。正確に言うと、グループレポートで、必死こいて頑張ってみんなで書いたそれは、その後、模範教材として、数年間使われていたらしい。ただ、あのレポートで自分の貢献はあまり多くなくて、授業サボってたので、他のメンバーたちが書き上げたものという、オーサーシップについての注釈は公平性のために付記しておきたい。とまれ、自分が結構頑張って貢献した先行研究レビューは、かなり上手く書けたと思う。なんなら、4年のときに書いた卒論よりも上手く書けた。下手すると修論より……。まあいいや、回心、要するに俺は信仰の問題に回帰している。生活の中の、世俗と宗教の問題だ。ぐるぐるとずっと同じことを考え続けている。おそらく健康になるためにも、新たな信仰を得るためにも、新しい文体が必要だ。