たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

闘病?日記20240606

朝早く起きて、有酸素運動やるんだ!と意気込んで寝たが、起きたらそんなやる気は布団の奥底に沈んでしまっていて、いくら呼んでも帰ってこなかった。起きると足が筋肉痛のような感じがする。親指の付け根の痛みとは明確に異なる。ここ最近、ほとんど毎日だ。疲れなのか、なんなのか。

 

 

脳内スカッとジャパンを辞めたい。たぶんストレス解消になっているのだが、それ自体に淫してしまい、思考が自動的に展開されて、良くない方向に誘導されている。

 

 

6年くらい前に書いて、そのままこのブログの下書きに突っ込んで死蔵していた文章を読み返していた。たしかそのとき、登山中にケガをして、そこから身体に関心を向けていたときの話だ。基本的に、自分の身体は右肩下がりである。いや、たしかに内臓諸々、徐々に終わっていっている。だがここではそういう比喩的な意味ではなくて、文字通りの話。

 

身体全体として、右側に傾いで、台形のようなかたちになるので、歩行のときには左足が外側に吊り上げられる形になって、外旋して、小指から着地しやすくなり、足首や足底に負荷がかかりやすい。同時に、右足にも不均衡な重さが伝わるため、長時間歩き続けると(数時間とか)足を怪我する。この自分の身体の観察を思い出したので、また歩き方を意識して調整しようと思う。過去の自分はいろいろ面白いことを考えて、やっていたなあ。

 

「家族全員の洗濯物をハンガーにかける。物干しを雑巾で服。太陽のもとに洗濯物を干す。布団をたたむ。

こつこつ日々努力すること、一歩一歩を刻んで前進し続けることは、どんなに微小であっても結果として積み重なっていくものだから、たとえすべてを押し流す致命的な事態がこれから来るとしても、それによってすらそれらの努力の過程が完全に無駄で無意味になる、ということはない。そうした自分の日々の努力、一歩一歩をも、自分で過小評価したり、なかったことにしたりしてはならない。

どんなに絶望してうちひしがれていても、たとえ自分を肯定し愛せなくとも、自分がここまで懸命に生きてきたという痕跡、足跡のことを尊重しなければいけない。肯定できずとも、尊重はできる。たとえそれが未来の何かにつながっても、つながらなくても。あとはただ、何かにつながることを祈ろう」(「糖尿病の哲学」、p.140)

 

「糖尿病と鬱病は、遺伝や気質の問題であると同時に、労働や男性性とも不可分な「死にたい」という欲望の問題でもある以上、自分がこの慢性的な病から持続する志によって回復し続けるには、この社会、この世界との対峙の姿勢について考えねばならないのだろう。鬱々とした精神と病み衰えた身体によっても、背伸びや無理ではない形で、社会的政治的な現実にあいわたるためのプラグマティックな方法論があるはずだ。そんなことを考えた」(前掲書、p.186)

 

「たとえ完璧な真理や正しさが見当たらなくても、過度に楽観的になったり自己啓発したりするのではなく、かえって、鬱病者的なリアリズムを発揮して、諦めるべきものを諦め、見切りをつけつつ、具体的に行動しながら、暫定的で限定的な正しさ=真実を積み上げていく、という意思もまた、重要なものと言えるだろう」(前掲書、p.210)

 

積み上げること、積み上げを可視化すること、積み上げてきたものに集中すること。その積み上げは、風雨にさらされても容易には倒れぬと信ずること。それでもなお、すべてを洗い流す天災は不可避的に偶発的にやってくるかもしれぬが、そのことも含めて、肯定して生きること。杉田の「糖尿病の哲学」のエッセンスを自分なりに抽出するなら、このようになる。いい本だった。折に触れて、おそらく読み返したくなるような本だと思った。

 

秋田は遠すぎる。肌寒い。縫製工場を見学した。製造工程を上からみる形での見学だった。見学や説明は面白かったが、人が働いて回るのを上から見下ろす視点の、なんとも言えない感じを覚えた。小集団活動のノートも見ていた。なんとなくだが、働いている人の様子が、立体化されるような気がした。

 

仕事で、自分にも他人にも腹立つことが発生したが、あんまり気にしないようにしよう。気を抜くとすぐに、辞めます!って辞表を叩きつけたくなる。さすがに、弊社にはいろいろな感情を持っているが、今辞めるのは、今後の人生として得策ではない。ぶっちゃけ言えば、どれだけ人がやきもきしようが、最後なんとかなればええんやろの精神でやればいい。そんなん、知らんがな、わては大した給料もらってまへんがな、の気持ち。

 

今日の秋田出張は、いろいろな人と話せてよかった。そして、酒も飲まなくてよかった。

 

今日はカロリーオーバーしたが、そこまで脂質はとっておらず、禁酒できたので上出来としよう。適度にやっていくことが大事。