たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

闘病?日記20240604-5

0604

朝起きて、ホテルから成田山新勝寺まで歩いた。およそ三キロほどの散歩。日差しも気温もちょうどよい。焼香して、悪いところに煙をかけるやつ(なんていうのかわからん)、内臓が主に悪いから、腹に向けて煙を送り込もうとしていた。このまま、散歩して、喫茶店にでも入って、ダラダラ本でも読みながら一日を終えたいが、仕方なく事務所に帰り業務の処理。

 

仕事後に、パスポートの申請。恐ろしいほど時間がとられた。それくらいしか書くべきことはない。忙しいというよりは、忙しない感じだ。

 

0605

どうやら疲れ果てていたようで、日記もほとんど手つかずで、風呂に入って布団に入ったらそのまま意識を失っていた。電気もつけっぱなしだった。

 

朝、足の親指の付け根に、違和感があることに気づく。あー、これは痛風の発作手前のやつだ。一応は、健康的なカロリーで暮らしているつもりだったが、運動量の増加と、体重の減少(だいたい多く見積もって、一ヶ月で5%程度減った)から、あのトゲトゲした尿酸のクリスタルが、溜まっているんだろう。おそらくメカニズムとしては、歩く量が増えて、遠心力と重力で、尿酸の結晶が足先に向かいやすくなっていて、体重の減少によって、身体全体の水分量が減ったことで、流量が減少して、結晶のトゲトゲが刺さりやすくなっているのだと思われる。まあ、たぶん禁酒と食生活を気をつけさえすれば、おさまるはずだ。より酷くなったら、病院に行こう。

 

長岡駅で乗り換え。少し時間があったから、駅をぶらぶら。くまざわ書店杉田俊介「糖尿病の哲学」と禹宗杬・沼尻晃伸「〈一人前〉と戦後社会」を購入。杉田俊介鬱病ツイートが、この日記を書く一因となった。俺自身は杉田の良い読者とは全く言えないし、いろいろな意味で、杉田の議論には乗り切れないところがある。とはいえ、彼の取り組む主題は、自分にとっての切実な題材でもある(だからこそ複雑な気持ちになることが多いのだが)。この「糖尿病の哲学」も、病者の一人称の日記スタイルであり、ある種のセルフケアの営みでもあって、ほとんど、今書いているこれと一致する。書いていて思うのだが、不思議と書くことで多少は前の方を向けるような気がする。

 

記録をつけることは、己は何もなし得ておらず、生きていても仕方ないのだ、というどこから来たるかわからない原罪の呪わしきウィスパーボイスを、「可視化された量」という極めて近代主義的な呪物でねじ伏せる調伏行為と言える。呪いには呪いをぶつけるんだ精神。

 

仕事上の飲み会に対してとてつもなくネガティブな感情を持つことも多かった。ただ、飲まなくなって、むしろプラスに感じる部分もある。飲むのが仕事だ、と上の人は言うが、厳密に言うと、居るのが仕事である。その時間をともに過ごすことでしか、獲得できないタイプの、個人の信用財のようなものが明らかに存在し、その財がないと、通常の仕事のプロセスにおいて非常に効率性が低下することがありうる。はっきり言ってしまえば、やらかそうが、誰かを怒らせようが、スカした顔してようが、弊社は一般的な商取引を行っていないから、基本的に失注もしないし、致命的なことには大まかにはならない。居続けるだけで、ポイントが蓄積されていくボーナスステージではある。酒も飲まず飯も食わなければ、不健康になる要素がない。まあこんなことは、ほかにとくにやることがないから言えるだけだが。出張はどうせ落ち着いて何かをすることもできないから、ボーナスステージにいたほうが楽である。酒を飲まないのにも慣れた。とはいえ、これを普段の事務所でやってはいけない。居ることに価値が見出されるのは、弊社の普段の事務所でも同じなんだが、俺は絶対にそうしない。

 

ここに書いていいものかと思うのだが、俺はもう事務所内の50代以上の人や管理職と心を通わせて、彼らの好感ポイントを上げていく意味をまったく見いだせない。どうせ飲まないが、ともに時間を過ごす意味を感じない。それは、この1年半色々あったことの積み重ねだけど、勝手に病気になって死んでくれと思っている。なので、事務仕事は最速処理して、ワークフローを合理的に改鋳して、必要な労働時間を減らしていく必要がある。

 

だいぶ出張でメンタルが削られていたが、いまは、家には帰りたいが、むしろ普段の事務所には行きたくねえなあと思っている。

 

ダイエットの進捗だが、順調に推移している。折々のイラつきはあるが。PFCバランスにはそこまで頓着せず、総カロリーも、厳格に1800キロカロリーにこだわりすぎないようにしている。ほどほどの加減でやり続けることが大事なんだろう。外食の行き先ははっきりと変わって、基本的にラーメン屋か居酒屋に行っていたときから、いまは蕎麦屋にしか行かなくなった。蕎麦は茶色い炭水化物で、GI値が低いため、多少食べ過ぎても、まあなんとかなる。運動は意識して、活動量を増やしている。いまメインで使っているスマホが、気を抜くとGoogle Fitの記録を取らなくなるので、それがストレス。スマートウォッチ的なやつを買ったほうが捗るのだろうか。このあたりは、識者に聞きたいものだ。

 

「体を休めながら、自分の人生を色々と振り返った。そしてふと気づいた。これまでの生き方は、緩慢な自死のようなものだったのではないか(略)見まいとしていたのは、己の身体の病というより「どこかで死にたがっている自分」だったのではなかったか!?

そうか、これは依存症者の心境にも近いかもしれない。というのは、今回の検査で、糖尿病という現実を突きつけられたとき、どこかに「ああ、これで今までの緩慢な自滅のような生き方をやっとやめられる、よかった」とほっとしてる自分がいたから」(杉田俊介『糖尿病の哲学』、pp.29-30)

この杉田の文にある「糖尿病」を、膵炎の疑いに変えると、自分と全く同じである。破茶滅茶な空腹時中性脂肪の値が出て、すぐに病院に検査に行けと言われたときに、嗚呼これでもう無理して飲み会で鯨飲して破滅しなくてよいのか、と、安堵した。自らの破滅願望(といってしまうと、どこか美的なニュアンスを帯びて良くないので)あるいは希死念慮(と言い換えるが)とどう向き合うかは、今後のずっしりとした重みを持った課題である。

 

 

「なんて人体はままならないんだろう!ひたすらがんばって痩せたり、がんばって運動すればいい、というわけではないのだ。体質改善とは、絶妙な日々のバランスの調整であり、急激な転換や改心ではないのだ」(前掲書、p.114)

高難易度シミュレーションゲームをゲームオーバーにならないようにやっていく。クソゲーだからといって、投げ出せない。淡々と粛々ととぼとぼと。