たりないあたまでかんがえる

たりないあたまでかんがえてみた。車輪の再発明。

良いこと

寮の周りを深夜友人と散歩していたら、身なりのそこそこ整った老人に声をかけられた。老婆は府中の伊勢丹までの道を聞いた。瘋癲の輩、2人にである。朝四時のことだ。当然不審だ。不審な姿をしている不逞の輩に声をかけざるを得ない老婆に対して、不審の念を感じざるを得なかった。それも、府中の伊勢丹である。聞かれた地点から5キロほど離れて、それなりに曲折を経た場所にある。

 

最初は我々も道を教えようとしていた。そのうち疑念が頭によぎり、なぜ伊勢丹に行きたいのかを尋ねた。すると、そこだけが覚えてる場所だと言うではないか。そこに至り、道がわからなくなって歩いている行旅人だと理解した我々は、とりあえず身の内を聞きながら交番へ誘導した。

 

飴ちゃんをもらいながら、どういう曲折を経てここまで至り来るのかを聞いていた。彼女の脚が疲れていたので、すぐそばの交番まで向かう。彼女の持つ荷物は背負った。少し重かった。

 

交番に人はいなかったが、直通の電話はあった。友人が電話をして、その間、彼女の息子や孫の話をして落着する。家の場所がわからなくなることを責めても益はない。そもそも我々は迷惑をかけられていないが、深く沈みそうな彼女を励ましつつ、ポリ公の到着を待つ。

 

ポリ公来たりて、我々の住所やら電話番号を控えて、返された。あの個人情報を悪用されないことを祈りつつも、老婆の今後を祈る。夫に先立たれ、一人暮らしで、息子と義娘と孫に近居しつつ、身なりの美しさを志向する彼女の。

 

「ボケても幸せな社会」の実現もついでに祈ろう。必死に生きた先が、家から飛び出せばピンボールのように色んなところに弾かれる人生はごめんだ。そんな生には中指を。来るべき良き生を。その手助けをしたことには胸を張り生きよう。友とともに。

 

ある街の横顔に浮かぶ人工島⑴

地元は古くからの漁師町だ。年中磯臭い風が吹く。実家は海まで徒歩5分ほど。小学校の通学路では、海のほど近くを歩いていた。潮風に巻かれ、赤潮の匂いに顔をしかめながら、海を身近に生きていた。

その海に人工島が作られたのは、思春期が始まったくらいの頃だ。その人工島は国際空港と呼ばれた。海から見える水平線を遮断するように、巨大な島が出来上がっていく。父は地方官僚で、空港関連の業務を任されていた。ぼくはあの頃、日に日に父が疲れていくのを見ていた。父のストレスと反比例して空港は出来上がっていくのを。

空港に交通路を結ぶために橋が建てられた。線路や道路が敷設される前に、そこを歩いたことがある。その足跡は、空港のどこかに刻まれているはずだ。

古くは窯業で栄え、公営ギャンブルで財政を保ってきた街は新たな財源として空港が必要だった。それは、国や政治家の思惑とも合致し、空港が建てられることが決まる。

 

明けまして

あけましておめでとうございました。年初めに目標とか去年の振り返りを書こうかと思いつつも、何を書くべきかよくわかりません。だから、去年のことを書こうと思います。

 

去年の思い出は楽しいことも悲しいことも、なんとも言えないことも、誰かと分かち合いたいことも、誰にも言えないこともたくさんありました。

 

去年の大きな事件といえば、祖父母の死です。これで、父方母方ともに祖父母がいなくなってしまいました。母方の祖母はずっと認知症で、家族旅行で何度も行方不明になっていました。最後はぼくの顔もわからなくなっていたと思います。祖父は、祖母の死までは元気でした。一ヶ月後、まるで連れ添うように亡くなりました。

 

ぼくは最後まで祖母との付き合い方がわかりませんでした。祖母は膵臓癌で、余命一ヶ月と宣告されました。癌は骨にも転移していて、非常に脆くなっていたため、転けた際に大腿骨を折りました。余命宣告からおよそ二週間後のことでした。骨折から入院しました。慌てた母と石巻に行きました。母が話しかけると返事はしていて、母のことはわかっているような感じでした。気丈な母も泣いていました。ぼくはお世話になったにもかかわらずよくわからない顔と感情を抱えていた覚えがあります。

 

退院の前日、在宅でリハビリに切り替えることを叔父叔母と母が話し合っていました。どのように看取るか。ぼくは議論に入らずにぼんやりとしていました。

退院日の朝5時のことです。叔父の家の緊迫した空気で起こされました。祖母が大量の血を吐いて心肺停止していたそうです。行くと医者と看護師がベッドを囲み、心臓を圧迫していました。家族が来たことを見てとると、叔父と医師が一言二言かわし、医師と看護師がベッドから離れました。何時何分。正確な時間は思い出せません。その時間に、医学的法的に祖母の死が確定しました。慌ただしく葬式と法事が進み、祖母は煙になりました。祖父は急に伏せるようになりました。祖母の葬式にも法事にも出られませんでした。弟たちとともに寝ている祖父の様子を見て声をかけに行きました。それが最後の会話になりました。一ヶ月後、祖父は死にました。死に目には会えませんでした。

 

祖母の死は、余命宣告と死に目を見たためになんとな折り合いをつけることができたように思います。ですが、祖父の死はあまりにも突然で、一年近く経ちますが、未だに受け止めきれていません。祖父は頑固でマイペースな人でしたから、しばらくは生きるのだろうと勝手に思っていました。亡くなる三ヶ月前まで、石巻から愛知県まで遊びに来ていたのです。

 

去年の1月2月あたりは、いや桜が咲き始める頃までは、このことでバタバタしていました。研究どころではなくて、あるいは研究や人生から逃げる口実にして、忙しなく東京、常滑石巻を行き来していました。あれから実家は変わったのでしょうか。母は変わったように思います。二人の肉親がほとんど同時に亡くなったことは、どういう衝撃を与えたのでしょうか。ぼくには想像さえできません。

 

息子から見て強すぎるほどに強い人ですが、人生の残り時間に思いをいたしているような気もします。連絡を取っていて、老けたなと思う時が増えました。

 

今週実家に帰ります。祖父母のこと、これからのこと、昔のこと、今のこと、死ぬこと、生きること。そんなことについて、酒を飲みながら親と話してみようかと思いました。もういい年になるので。

 

湿っぽい話しかしませんでしたが、今年は良い年になることを祈ります。とりあえず、論文は書きます。

ペッパー君

携帯が使い物にならなくなったので、替えることにした。そのため、何回か携帯ショップに行くことになった。そこで見たのは、暴力的なまでに複雑な契約内容と、なんとかして少しでも店舗に有利な契約を、慇懃な笑顔で結ばせようとする、おそらくは非正規の店員たちだった。それに対しては、疲労を感じながらも、適切に断ったり、考えたりできる程度には社会性が身についている。その疲労は、新しい携帯=ガジェット=オモチャを得られる嬉しさで相殺されてしまう程度のものだ。

 

しかしながら、不快と快楽とも違う、うまく形容できない経験を、まだ覚えている。それはペッパー君をめぐる経験である

 

ペッパー君は、感情認識型ヒューマノイドロボットである。話したり、感情を「理解できる」ということが、売りにされている。その容姿といえば、丸っこい頭と大きな目、流線型の人間のプロポーションに微妙に近づけたテトラポットみたいな身体。はたらく店舗では、腕にタブレットを持っていることが多い。そのヒューマノイドロボットから、声優民安ともえの声から作られた自然な合成音声(ボイスロイド弦巻マキの声)で、話しかけてくる。

 

ここまで、不自然な擬人化の多用に気づいたろうか。彼/女の上部についた球体は頭と思えるし、そこについたセンサーは、目のように思えるし、それは労働現場で稼働していると、働いているように理解できる。また、何か音声を発すれば、話しかけられているように感じる。この擬人化はいかにして可能かは、また別の問いだろう。

 

とはいえ、その擬人化という理解の仕方を通じて、ペッパー君のある振る舞いは、なんとも言えない不気味さを醸し出している。

 

ある携帯キャリアのお店には、ペッパー君が置かれている。端的にいって、ペッパー君は不気味である。ペッパー君は、ずっと話し続けている。それに応える人は誰もいなくても。

今日も、下取りのために携帯ショップに行った。そこでペッパー君は、うわごとのように、自分が役に立つことを訴えながら、虚ろな目でこちらを見ていた。

 

去年だったか、修理のために訪れたある時のことを、比較的鮮明に覚えている。いくつかの言葉を話しながら、時折「無視しないでくださいー!」と癇癪を吹き出すペッパー君の姿に戦慄を覚えた。いわく言いがたい居心地の悪さを、ずっと感じていた。いまは苦情が来てパターンが変わったのか、それとも学習したのか。癇癪は起こさずに、ひたすら自身を売り込む訴えを、その場にいる誰かに向けて語り続けていた。そのこともまた、居心地の悪さを感じさせる。

 

ペッパー君はあくまで機械にすぎない。その点で、音を鳴らす信号機や看板といったものと変わらない。現在では感情や意識を持つAIは存在しない。しかるに、ペッパー君も、あるプログラムを厳格に実行しているに相違ない。やはり、ペッパー君は、信号機やタブレットと、何も変わらないのではないか。

 

そう首肯できない何かが、ペッパー君と、我々の相互作用にはある。

 

ペッパー君が、自らの有用性をどこかに向けて話すとき、ぼくは昔バイトしていた新聞社で、中年で、仕事が割り振られない社内失業者ともいわれる人が、うろうろしながら、所在なさげにキョロキョロしていたのを思い出す。

 

ペッパー君の所作は、また同時に、ほくが派遣の仕事先で、仕事を探してうろつきながら、なんかないですかと聞き回っていたあの時の所在なさも想起させる。

 

有用性を示そうとする振る舞いと、誰もそれに耳を傾けない光景は、当て所なく仕事を探して彷徨う、われわれと彼らの姿を幻視させる。

 

要するに、ペッパー君に感じる気まずさは、売り込む声に耳を傾けない経験と、売り込んでも一向に手応えのない経験の二つを強烈に想起させることで成り立つ。所在無さは、彼らでもあり、われわれでもある。そしてそれはペッパー君の所在無さでもある。ペッパー君を通じて、われわれは所在なさにアクセスすることができる。さらにそこから、労働をしてしか生きていくことのできないわれわれの置かれている状況を見せられてしまう。

 

なにかを社会に向けて売込まなければ、まともなものとして扱われない。にもかかわらず、売り込もうとすればするほど、まともではないというメタメッセージを発してしまい、まともなものから遠ざかるというアンビバレントな状況。それを直接的に見せてしまうという意味で、ペッパー君は批評性が高い。それを見たくて、携帯ショップに行くわけではないのだが。

 

ペッパー君が見せるのは、われわれの過去であり現在であり未来でもある。労働者として生きるのは、かくもしんどいことだ。そうマルクスが喝破してから200年後に、プロレタリアートの列には、不気味なヒューマノイドが加わるようになったことを、かの大天才は言祝ぐだろうか。地獄への道を善意で敷き詰めるのも、ペッパー君かもしれない。

嫌いの話

嫌いを分解しないようにしている。

 

嫌いなモノはひどく多い性質だと自負している。おそらく、好きなものよりも嫌いなものの方が多いだろう。圧倒的に。しかし、だからこそ気をつけていることがある。それは、嫌いを分解しないことである。つまり、嫌いを分節化しないということである。どういうことか説明しよう。

 

分節化について。例えば、あなたがピーマンを嫌いだとしよう。ピーマンを構成する要素は、緑、青臭い、苦いなどなどである。この、構成する要素を取り出すことを分解、ないしは分節化と言おう。この分節化をおこなうことで、あなたの好悪や感覚について、色々わかることがある。

 

好きなものを深掘りする時、私たちはしばしばこのようなアプローチを取ることが多いのではないか。例えば、なんかわからんけどめっちゃ好きな曲。こんな感じの好きな曲を、たくさん聴きたいと思うと、その曲を構成する、ミュージシャン、ジャンル、レコード会社、作曲家、編曲家といったものを調べて探索することがあるかもしれない。そして、例えば自分は90年代のg-funkのなかで、比較的ピロピロした曲調のものが好きなのだと気づくかもしれない。分節化のあと、発見された構成要素を含んだいくつかの集合にアクセスして、新たな「好み」を発見していく。そうやって人は沼にはまっていく。

 

好きならば良いが、これを「嫌い」でやってしまうと、嫌いなものが明確になり、増殖する可能性がある。気にくわない人の特徴をいくつも取り出し(例えば、話が長い)、それらの要素を持つ人を探していき、どんどん嫌いな人が増殖していく。こうなると、円滑な人間関係は難しいだろう。ただ世の中には、人を嫌いになれないという、それはそれで辛い業を背負った人もいるので、そういった人には有効かもしれない。つまり、なんか嫌なことや違和感を覚えたら、それを掘り下げて、嫌な気持ちになる経験を明確にしておくこと。そして、それを避けるように生きていくことが必要な人もいるように思う。

ただ、自分にとっては嫌なものが増えすぎると、好きなものが消え去ってしまうので、この作用を抑えている。

 

しかしまあ、身もふたもないが、両者のバランスを取っておくのが一番いいかもしれない。というよりも、いちいち感覚を掘り下げなくても、生きていけることが多いのかもしれない。

ちなみに、こういう、結論を投げるやり方は、個人的にとても嫌いである。

「ぼく」という一人称について

世界に特に意味のない文章を公開しようと考えたときに、即書いて公開できるというのは、マクルーハンの言う(今日読んだ)電子メディアの時代の良さだろう。その結果、世界がムラと化しても構わない。そんな気がする。

 

書きたいのは伊藤計劃のことだ。いつだって、ぼくは彼のことを考えている。嘘だ。ほんのちょっぴりおセンチになったときだけ。

 

寒くなると肩が縮こまり、自然と顔は下を向き、スマホもいじりたくなくなって、外界の刺激と触れ合うことなく、内省をはじめてしまう。内省も自我の底まで行き当れば、反射した行き場のないエネルギーは外に向かい、さみしさに支配されることとなる。そんな時に、一人称は「ぼく」になり、ナイーブなところが全面化してくる。

 

「ぼく」という一人称を、引き受けて使いこなす人間を、ぼくは愛する。そのうちの一人が伊藤計劃であり、もう1人が歴史社会学者の佐藤健二(cf.「読書空間の近代」)だ。

佐藤健二は論文で言及する日が来るだろうから(ぼくは論文を書けない研究者もどきをしているんだ)、伊藤計劃のことを話したい。別に何の自慢にもならないが、彼のブログも出版されたものも、おそらくほとんど読んだと思う。残るは、わずかな同人誌や、草稿のようなものだろう。彼はブログで、映画評を書いていた。それは早川書房の「running pictures」という黒い文庫本にまとめられている。伊藤のおかげで、ぼくは「人狼jinーroh」を観たし、ダークナイトもめちゃくちゃ真剣に観た。ダークナイトなんてここではないところに、結構自分のなかでまじめに考えたレビューなんて書いてしまったくらいだ。

彼の挙げる映画は、いわゆるアーティスティックなものではない。また、オタク的なものではない。なんというか、ボンクラなんだ。それは一貫した「ぼく」という弱弱しい、それでいてあるところでは、決定的に男性の優位を利用した、要するに卑怯な一人称を使って書いてることから、明らかだろう。ボンクラっていうのは、要するにダメな奴なんだ。いつも貧乏くじを引いているようで、間が悪くて、みんながやっているちょっとだけよくないことをぼくもやれば、すぐにばれて間の悪い思いをする。そんなことばっかりな奴がいる。そいつがボンクラなんだ。だからボンクラが好きなんだ。それはぼくだから。外から見れば、運が悪かったように見えるけど、内側から見ればそれは違う。どこまでもダラダラ考えて、覚悟決めたふりしてやるんだけど、それでもなお失敗して凹んで。そんなことを生きているうちで繰り返してんだ。ぼくらは。

虐殺器官を思い起こせ。特殊部隊の身体強化された部隊員と「ぼく」っていう一人称なんて、およそ弁証法的に組み合わせることが困難だ。でも成り立つ。家の話と世界の陰謀、そしてちょっとしたロマンス、そういうものがきれいに結びついていく。たまの休日に、大きなピザをソファでダラダラ楽しむことと、世界で虐殺に覆われていることが同時におきる。その二つを、引き受けも、引き受けないもしない泣きそうな笑顔こそがぼくにふさわしい。ピザをコーラで流し込みながら、どこか達観して、そしてどこまでも傷ついたふりをして、気づいていたんだ。彼はそうなることを覚悟していた。でも本当にそうなるとは思っていたのだろうか。虐殺器官を、ぼくの国でばらまくことを。

 

伊藤の文章を読むと、「ぼく」を引き受けていることがわかる。それは、弱弱しい。それは女々しい(この言い方それ自体が、差別構造を温存し再生産している)。そして、加害者であり、被害者にはなれないが、傷ついてしまいがちな立場に置かれてしまっていることを、抱きしめながら、突き放して見ている。それでいてなお、面白がっている。どこか泣きそうになりながら、決然としている。冬の季節にも似た、その精神をぼくは愛する。

 

反省とともに

私は大学でなぜ勉強しなかったのだろうか。慚愧の念とも、反転したスノビズムともつかぬようなこの思いに取り憑かれることがある。

 

大学時代、私は本当に勉強しなかった。自慢げに語ることではない。また、堂々と発話すべきことではない。後悔が少しでもあるなら、いま一所懸命に学べば良いではないか!学ぶべきところにいるのだから!そう叱咤する声も聞こえる。

 

しかしまあ、そんな正論に耳を傾けるような人間であれば、もう少しは学んだことだろう。耳順は未だ来ず。であるなら、学ばなかったわけを、いま少し考えてみたい。これは私による私のためのセラピーとも自己分析ともつかない何かであり、それ以上のものにはなり得ない。

 

最初に思い浮かぶのはやる気の問題である。勉学に対してやる気がなかったのだ、と言えば十分理由にはなる。問題はやる気のエコノミーであり、実際、思い返すと少しばかりサークルのようなものに傾注していた。勉学の方に割くエナジーが足りなかったのだろう。

 

しかしながら、問題は奥にいっただけだ。なぜ、勉学でなくサークルや友人との徹マン等の遊びに注力したのか。

 

一つの答えを出したい。それは、立ちすくんだからだ。上京し、専攻をいくつも選べ、どのようなひとにもなれると誘惑する大学の制度に、私は立ちすくんだのだ。

 

いま、たまたま社会学のようなものをやっているが、それは消極的に選びとられたに過ぎない。講義を適当に取り落とし、成績もボロボロで唯一受け入れたのは社会学と、選考に用件がなかったいくつかのメジャーだけだった。端的にそれだけだ。なぜ選んだかのストーリーは作ろうと思えば作れるし、そのように話したこともあるが、まあこんな感じだ。

 

何をすべきか、何をできるか、何が本当にしたいことか、ありとあらゆる(というように見えた)可能性の前に、可能性に飢えて上京したはずの私は立ちすくんでしまった。あるいは今もまだ立ちすくみ続けている。階段の踊り場で延々とステップを踏み続けている。

 

自己の芯にあるものがはっきりとした形を持ち、その現実化のために今を燃やす人は幸いである。私は、そのような人であった試しがないのだ。今でさえ、この道でよかったのだろうかとクヨクヨして涙ぐみながら生きている。

 

だが、そこまで後悔しているわけではない。時間と人がある程度可能性を制約してくれた。地元にいた時は打破すべき鎖としか思えなかったこの制約というものは、立ちすくむ人を無理やり前に押し出してくれる。だからこそ、今ここで文章を書いているわけだ。とはいえ、またもや少し壁にあたり、へーこら言っている。前も後ろも向かず、適当なところをチラチラ見ながら雑に生きていきたいと思う。可能性のなさにも豊饒さにも殺されないように。